教育基本法における個人主義とは何か 続き

 田中耕太郎 『教育基本法の理論』 有斐閣 昭和36年(1961年)

 第一編、第一章、第一節の序章からの引用。

 日本国憲法が民主主義と平和主義の理念をかかげることによって、ファシズム共産主義をふくむあらゆる種類の全体主義を否定し、また軍国主義、極端な国家主義民族主義を排斥していることは明らかである。その基本原則は個人の基本的な人権と自由である。人権と自由の保障はあくまで憲法の中心をなしている。ところでこれに対立する原則として公共の福祉がかかげられる。しかしこの公共の福祉は個人にとってはその人権と自由が行使さるべき限界となり、国家にとってはそれを併せて考慮することが権利や自由の最大の考慮に附された条件となっているのである。この場合の公共の福祉はそれの主体である国家共同体の独立の意義と価値を認めた上のことかどうかは疑わしい。今私はこの際憲法の思想的系譜に立ち入って検討することを控えるが、私の憶測によれば、憲法アメリカ独立宣言やフランス革命の人権宣言の思想的基礎となっている啓蒙的個人主義自然法日本国憲法に取り入れられたものではないかと思う。憲法アメリカのジェファーソン主義的色彩が濃厚であることは、その制定の当時の経緯から推察すれば別に怪しむに足らないのである。
 要するに憲法の基礎である世界観は個人中心であり、団体つまり家族、国家というような共同体の価値の承認は表面にあらわれてはいない。それは法哲学的には純然たる個人主義的(Individualiste)なものと見て差しつかえないのである。一概に民主主義と平和主義といってもその幅はきわめて広いが、憲法のそれは個人主義的系統のものであり、この点において世界観的に批判の余地が存在するのである。
 しからば教育基本法の根本理念はどうであるか。それは本法が全文に示しているように「日本国憲法の精神に則り」制定されたものであるから、当然個人主義的なものである。このことは過去における日本の教育は極端な国家主義、団体主義の方向にはしって、個人の尊厳や人間の個性を等閑にしたことに対する反動として自然である。
 このことは前文の文句にあらわれている。それによれば教育のめざすところは、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和とを希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造」ということになっている。そこには国家とか民族とか愛国心(もちろん戦前の狂信的なショーヴィニズムではない健全な意味での)など全然姿を消している。これらの諸概念諸価値に言及することは、おそらく軍国主義や極端な国家主義に対する郷愁をもっているかのように内外に誤解されること、また将来かような傾向が復活する根拠になることをおそれたことによるものであろう。
 序に一言するがもし我々がそこに超個人的な何らかの価値を求めるならば、それは「文化」である。文化はそれ自体個人や団体のように人間ではない。それは個人を成員とする共同体(国家、民族)の所産である。それは人間の創造にかかるが、人間自体ではない。その意味で文化価値(Kulturwert)は法哲学、政治哲学において法や国家の目的が何んであるかを論ずるにあたって、人格価値(Persönlichkeitswert)および団体価値(Gemeinschaftswert)を主張する立場に対して、第三の立場の基礎となるのである。
 さらに我々は教育基本法における「教育の目的」を検討しなければならない。
 教育の目的を宣明している教育基本法第一条は憲法の精神を受けて個人中心主義において徹底している。それはもちろん前にのべたような国家や民族の価値に直接全然言及していない。法はしかしそれらを全然度外視することはできないので、育成さるべき平和的な「国家及び社会の形成者……としての国民」の概念の中にふくめているのである。この点は教育勅語とくらべて著しい対照をなしている。教育勅語がその内容において軍国主義や極端な国家主義民族主義を代表しているとは思われないが、過去においてあやまってこの方向に解釈されたからして、教育基本法はとくにこの点を警戒したのである。なお「勤労と責任を重んじ」といっていることも国家と社会に関係があることは認められ得る。しかし国家や社会自体の教育上の価値が積極的に表明されておらず、とくに道徳の揺籃である家族‐これは社会の中にふくまれているのであろうが‐が全然姿をあらわしていないのは、憲法が廃止した封建的な家族制度に対し未練をもつものと誤解されないことの用意であったかもしれない。