教育基本法改正の必要性を問う

今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について(答申) (第22回答申(昭和46年6月11日))

 この答申はいわゆるゆとり教育路線の出発点になったものだ。この答申には、現在の教育改革の議論と教育基本法改正をめぐる議論とほぼ同じ内容のものが盛り込まれている。この答申から数十年がたっている。この当時行われた議論と同じような議論を今また繰り返している。
 この答申には「教育基本法の改正」ということは明示されていない。

教育は,人間の豊かな個性を伸ばし,望ましい目標に向かって個人の可能性を最高度に発揮させると同時に,教育基本法にも明示されているように,平和的な国家・社会の形成者の育成をめざすものである。人間は本来国家・社会を離れて生きるものではなく,個性の伸長や創造力の発揮もその文化の伝統の上にはじめて達成されるものである。このことを軽視すれば,文化の断絶と混乱を拡大する結果となるであろう。また,多様な価値観を追求する自由が保障されるためには,民主社会の規範が確立されなければならない。このような伝統の継承と規範の体得という共通の基盤の上に,個人の可能性の豊かな開花をめざすことが公教育の任務である。そして,このような豊かな個性の伸長こそ,国家・社会の新しい文化を創造する源泉である。
教育制度は,それぞれの時代の諸要請を反映したものであって,ある時代において適切と考えられた制度も人間の潜在的な可能性をよりいっそう豊かに開発することをめざして不断の改良が加えられなければならない。学校体系も教育内容も,人間の発達に関する探究の成果にもとづいて改善されなければならない。
また,すべての個人は生得的にも後天的にもひとりひとり特性を異にし,同じことを修得させるためにも同じ教育方法でよいとは限らず,まして,個性的な発達をはかるべき時期には教育の内容・方法については画一をさけ,慎重なくふうが必要である。しかし,現実には形式的な平等を強調するあまり,かえって基礎的な能力もしっかり身につかなかったり,形式的な履修だけで学校を終わる者が多くなる傾向がみられる。このことは近年就学率がいちじるしく増加した高等学校においてとくに顕著である。

 教育基本法が個人を強調し過ぎているために、様々な問題が起きているという指摘がある。この答申では教育基本法の改正ではなく、教育制度の改革によって問題を解決しようとしている。
 それは、今日のように法律によって規定・規制したり、愛国心というような思想や概念の部分で変えようとするのではなく、教育制度という「現実的な」部分で変えていこうとしている。その違いは、前者は議論の余地を与えないのに対して、後者は議論の余地を残す。また、前者は画一的に賛否に関わらず変えていくのに対して、後者は「この改革の実現に対して,教育関係者が積極的な努力を開始し,国民的な支持の盛り上がることを心から期待する。」というように、国民に賛否を問い、合意を形成しながら変えていく。
 もう少しきちんとした検討をすべきだが、今日とこの答申では目的がほぼ同じでありながらやり方が違っているということは分かってもらえると思う。この違いを見てみると、教育の問題解決には教育基本法改正が絶対に必要だという主張が、間違いであることに気が付く。