学力テストと権威

学力テスト実施/国の権威ある行事の一つに

 この社説では途中までは学力テストは教育の質の向上のためであると述べている。しかし、途中から

 旧文部省は、昭和四十一(一九六六)年まで毎年、全国一斉学力テストを実施し、児童、生徒たちの学力レベルを具体的に把握し、教育指導を行ってきた。

 しかし日教組が、国の学校現場への介入という名目で一方的かつ不当に批判してテストは廃止され、生徒の学力程度を公式的に把握されずにきている。しかも、テスト廃止を契機の一つにして、国が、生徒の学力向上などのために学校現場の教育内容について具体的に指摘し指導する手立てを講じることができなくなった。

 確かに実施当時、一部の学校間で対抗意識がエスカレートし、児童にテスト勉強を強いるなどがあったことは事実だが、時代は当時の教育環境と全く変わり、義務教育の質を問う声は圧倒的に強くなっている。

 学校間で正当に切磋琢磨すること、さらに自治体ごとに、生徒たちの学力がどのレベルにあるかを知り、競い合うことは重要なことだ。学力テストがつつがなく行われるよう準備し、実施背景を国民に周知させることが必要である。

組合の不当な支配排除を
 今年一月開かれた日教組の教研集会で、森越康雄委員長は、全国学力テスト実施計画について反対の立場を強調し、「(文科省は)競争させないから意欲が高まらないとばかりに声高に叫んでいるが、学習意欲の減退はさらに深刻になる」などと発言したが、全くの筋違いだ。
 学力テスト実施で、国の教育権を取り戻し、学校現場の不合理を打破して組合による「不当な支配」を排除しなければならない。

という方向に変わっていく。
 学力テストの目的が「組合による「不当な支配」の排除」にあるとするなら、それは教育を隠れ蓑に子どもたちを利用した政治闘争ではないか。それが目的なら、学力テストなどやる意味がない。
 近年の教育改革は、本来の目的や思惑をひた隠しにしたり、覆いを掛けるようなことをして、表向きは子どものためというような大義名分を持ち出してくる。見えないところで都合の悪いものなどを排除していくシステムが構築されていく。
 その改革は「本当は」誰のためのものか。そこから目をそらすために危機を煽り、対立の構図を演出する。そういう改革が次から次へと持ち込まれてくる。
 自分たちにとって都合の悪いものを見つけ出すためのシステムと、それを容易に排除できるシステムを構築し、「正義」を持ち出すことでそれを正当化していく。そういう改革が教育改革の本質ではないか。