体罰と期待と

体罰は教育だ」戸塚校長が刑務所から出所

教育言説をどう読むか―教育を語ることばのしくみとはたらき

教育言説をどう読むか―教育を語ることばのしくみとはたらき

 今津孝次郎「「体罰は必要だ」‐隠された大人の自己愛と支配欲」のなかで今津氏は次のように指摘している。

 曖昧な「愛の鞭」ということばによって、子どもへの体罰を指示する大人の主張は、世界的に共通して見られる。大人の都合による子どもの統制や抑圧としての体罰の問題を深く掘り下げて、親や教師の深層心理に注目したのは、アリス・ミラーであった。ミラーの次のような考察を読むと、「愛の鞭」ということばがなぜ曖昧になるのかということも理解することができよう。つまり、体罰は子どもの側というよりも、体罰を行使する大人の側に深く内包する問題から生じるからである。

 子どもは最初から一定方向に「もってい」かねばならないという信仰は、そもそも教育する側の、自分自身の内部にあって自分を不安にするものを分離し、なんとか自分の力の及ぶ対象に投射しようという欲求から生じたのです。子どものもつ素晴らしい可塑性、融通性、無防備性、そして子どもはいくらでも利用できるという事情のため、子どもは大人の投射にとって恰好の対象となります。こうして大人は自分の中の敵をやっと自分の外で追い回すことができるようになるわけです。

 教師というものは、非常にしばしば父親の代理として自分の生徒を折檻し、それによって自分たち自身の自己愛的安定を図るものです。


 体罰は大人の自己愛的な心理的安定を求めるがゆえのものである、というミラーの主張は、体罰がしばしば感情的な衝動に衝き動かされるように行使され、結果として子どもに大きな傷害を与えたり、挙げ句の果てには死に至らしめる場合の理由を、極めて明確に説明しているといえる。それはけっして、相手を愛するがゆえに諭すという類のものではない。
 こうして「体罰は必要だ」という、隠れているけれども強力な教育言説は、子どもに対する大人の統制本能と密接に関わり合っている。それだけに、「体罰はよくない」という法のことばも「体罰は必要だ」という日常のことばになかなか打ち勝てないところがあるのである。

 親などの子どもへの期待にも同じことが言える。子どもに親などが将来はこうなって欲しいと期待を寄せ、できる限りのことをしてあげる。それは子どもへの愛だと考えられる。しかし、その期待は自分自身に足りないものを充足したい、自分が果たせなかったものを実現したいという思いを子どもへ投射することだと考えられる。
 その期待によって、親などと子どもとの関係が崩れてしまうことがある。それが痛ましい事件へとつながることもある。
 さらに、今のように「自己責任」が強調される状況では、期待が実現できないというような場合、親は自分か子ども、子どもは自分か親の責任を追求しようとする。そのために関係が崩れやすくなっていると考えられる。
 体罰も期待も一方通行になりやすい。また、子どもに一方的に「変わる」ことを求めてしまう。「体罰のこつは『進歩、進歩』と考えながらやることだ。それがなくなるとだめだ」という戸塚氏の言葉にそれが象徴的に現れているように思う。