知識社会に向けて

“日本版イートン校”始動

 園田英弘 「学歴社会‐その日本的特質」『教育社会学研究』第38集 1983年 のなかで園田氏は次のように指摘している。

 西洋では、大学、特にエリート大学は、それぞれの社会の支配的階層の文化を体現しており、大学入学に向けての競争は、日本的感覚でいえば不公平な競争にならざるをえなかった。イギリスでは、現在はオックス・ブリッジといえども、授業料はイギリス国民であるかぎり無料である。しかしながら、経済的障害が少なかったとしても、そこに体現されている貴族的文化に積極的に同化しようとする野心的な若者の数は、一部の中産階級以上の子弟などに、どうしても制限されたものになってくるであろう。学歴による収入の格差が、日本よりも大きいにもかかわらず、また、エリート大学の卒業生になることが、その後の人生に大きな利益をもたらすことが明らかであるにもかかわらず、西洋では日本ほどには受験勉強に熱心でないのは、これらの国々の多くの若者にとっては、受験競争とは、学力の錬磨であると同時に、文化を、つまり生き方そのものを転換させる作業を意味しているからではなかろうか。

 では、日本版イートン校を目指すという海陽中等教育学校は、園田氏が指摘したような特質を持たない日本においてはどのような学校になるのだろうか。それを今回は少し考えてみたい。
 まず、海陽中等教育学校が目指しているイートン校などは「社会の支配的階層の文化を体現しており」、そこに入学することは「そこに体現されている貴族的文化に積極的に同化」することを意味している。しかし、海陽中等教育学校にはそういうものはない。
 イートン校でなぜ全人的な教育が可能なのか。それは、そこに体現されている文化が存在し、その文化に同化することが求められるからだ。また、そこに体現されている文化が形成できたのは他の階級からその学校へ入学するものが少なかったからだ。
 では、日本においてそれと同じことができるのかと言えばそうではない。なぜなら、日本においてはそれは公平な競争とは見なされないからだ。海陽中等教育学校が掲げる理念があるとしても、その実現は困難だろう。
 海陽中等教育学校にはこれから、「学力」の高い子どもたちを集める。それによって親や子どもを引きつけることが常に要求されるだろう。そのためにはよりメリトクラティックになっていくしかない。
 それはある問題を引き起こすかもしれない。それは、個々の子どもが持つ背景の違いがいじめなどの問題として現れてくるということだ。メリトクラティックになればなるほど学力的には均一化してくる。しかし、個々の子どもの持つ背景は均一化されない。学校がその違いが許容されるような環境が維持できればそれは大きな問題とならないかもしれない。しかし、そういう環境が構築されなかったときには問題となるだろう。
 子どもや親などの大きな期待を集めている。成果を上げることが求められている。それは容易ではない。
 次に、エリート(リーダー)教育についても少し考えてみたい。現在様々な国の教育施策を見てみると、エリートやリーダーを育成する教育の必要性を強く唱えている代表的な国は中国や韓国、日本などを挙げることが出来る。
 アメリカやイギリスなどはむしろ、国民全体の教育水準を押し上げる教育施策をとっている。なぜなら、知識社会においてはエリートやリーダーなど一部の人たちの教育水準が高いだけではダメだと考えられているからだ。
 アンディ・グリーン 「教育における集権化‐分権化と教育達成」  『教育社会学―第三のソリューション』で次のように指摘している。

 これまでの考察から導き出されるのは、国家の教育達成の基盤となると思われるのは、一定の広範囲の文化的特徴を有していることと、これらが一連の関連する制度的特徴の中に明示されていると見えることである。最も単純化すると(そして、議論の余地があるほどに単純に割り切ると)、高い達成を果たしている国々には、一つの「包含的な(inclusive)学習文化」があると思われる。それは、社会がすべての集団に提供する学習に対する高い報酬によって特徴づけられる。教育と職業訓練が、エリートにとってだけでなく、すべての者に対する規範と期待を制度化していくことで、また労働市場が教育・職業訓練で好成績を収めたもにに報いることで、大多数の人々に高い目標が強化されている。包含的な規範と機会の提供を達成するためには、一般に、システムが一定の実践を標準化するように作用するための、多くの装置を取り入れなければならない。さもなければ、つまり統制されない市場の状況では、不平等な市場投資の結果として、それらの実践はひどく格差のあるものになってしまうだろう。これらは、とりわけ、公平な統一的制度構造と標準化された資金投資システムを明確にすることを、象徴的に含んでいる。

 エリートやリーダーの教育を重視しようとすれば、これまでのアメリカやイギリスのような教育を目指すということであり、「包含的な(inclusive)学習文化」を放棄することでもある。
 現在の日本の教育改革は一方で「包含的な(inclusive)学習文化」を残しながら他方ではそれとは異なる教育を推進しようとしている。これまでその両方を同時に達成できた国はない。アメリカやイギリスはエリートは育成には成功しても、多くの人に同じような教育達成を実現することはできなかった。
 そのアメリカやイギリスは現在、「包含的な(inclusive)学習文化」を根付かせることを目指している。それが知識社会において「エクセレンス」につながると考えられている。しかし、日本、特に経済界などではエリートやリーダーの育成こそが知識社会では必要だと考えられている。
 アメリカやイギリスなどとは様々な点で日本は異なる。だから、イギリスやアメリカなどと同じようなことをやれば良いとは思わない。しかし、「包含的な(inclusive)学習文化」を捨てるのではなく、「包含的な(inclusive)学習文化」を洗練し、様々なものも組み込みながら新たな「学習文化」を創り出していくほうが良いのではないか。フィンランドはその一つのモデルだ。
 これからの社会においてどのような教育制度が必要なのか、それをこれからも考えていきたい。