「配慮する」ということ

 今回は「配慮する」ということを考えてみたい。ミドリガメサルモネラ菌が問題になったとき、どこかで何か問題が起きたとき、「配慮する」ということを思い浮かべる。
 最近、何か問題が起きたときや批判をされたとき、「配慮する」のではなく子どもの目の前、手の届く所から問題の原因を排除するとことが行われている。それは、結果として何も学ばない子ども、何も学べない環境を創り出している。
 周りにいる大人が配慮していれば、子どもは多くのことを学ぶことができる。そして、そういう環境は柔軟性を持っているから、想定外のことが起きてもある程度までは対応することができる。しかし、配慮を必要としない環境というのは想定外のことは受け入れず、柔軟性もないために想定外のことに対応することができない。
 ミドリガメの問題が報道されたとき、今こそミドリガメを飼ってきちんと学ばせるべきだと思った。それが「配慮する」ということであり、教育するということであり、学ぶということだと思うからだ。
 うまく言えないが、「配慮をする」ということが教育や家庭、地域などで失われてきてないだろうか。そして、それが子どもに何となく「いきぐるしい」と感じさせる要因になっていないだろうか。