国際理解教育と英語必修化について考えたこと

 まず、1974年のユネスコ総会で採択された「国際理解、国際協力及び国際平和のために教育並びに人権及び基本的自由についての教育に関する勧告」の一部を引用したい。(勧告は日本ユネスコ国内委員会のサイトの日本語訳のものです。)

 あらゆる人々が3にいう諸目的の達成に積極的に貢献することができ、かつ、個人及び社会の生活と基本的な権利及び自由の行使に影響を及ぼす世界の諸問題を解決するために必要な国際的な連帯と協力を増進することができるようにするため、次の諸目的は、教育政策の主要な指導原則とみなされるべきである。
(a) すべての段階及び形態の教育に国際的側面及び世界的視点をもたせること。
(b) すべての民族並びにその文化、文明、価値及び生活様式(国内の民族文化及び他国民の文化を含む。)に対する理解と尊重
(c) 諸民族及び諸国民の間に世界的な相互依存関係が増大していることの認識
(d) 他の人々と交信する能力
(e) 権利を知るだけでなく、個人、社会的集団及び国家にはそれぞれ相互の間に権利のみならず負うべき義務もあることを認識すること。
(f) 国際的な連帯及び協力の必要についての理解
(g) 個人がその属する社会、国家及び世界全体の諸問題の解決への参加を用意すること。

 ユネスコのこの勧告に示された指導原則から、必修化されようとしている英語教育を見たとき。その指導原則をどれくらい満たしているだろうか。この勧告は、英語必修化の目的として国際理解という目的が安易に掲げられていることを気づかせてくれるだろう。
 「国際理解」というのを安易に子どもたちに提示してしまえば、子どもたちの国際理解が深まるのではなく、子どもは誤解をしてしまう。
 何でもかんでも狭い範囲の中に押し込めようとする。様々な教科で取り組めばいいものを、ある教科の中だけに位置づけてしまう。国際理解もそのような位置付けになり、子どもたちはそれを国際理解だと思い込まされる。
 国際理解教育について十分に理解されないまま、英語教育と短絡的に結びつけられる。それは止めて欲しい。