開かれた文化を学ぶ

高校の科目に「日本の文化」 県教委

カリキュラム・ポリティックス―現代の教育改革とナショナル・カリキュラム

カリキュラム・ポリティックス―現代の教育改革とナショナル・カリキュラム

から長尾彰夫氏の次のような指摘を引用しておきたい。

 

わが国においては、共通の文化、共通のカリキュラム、共通の民族、共通の日本といった同質性(homogeneity)が暗黙のうちに前提され、肯定されている場合がしばしば見うけられる。そして暗黙の同質性を前提にした多様化は、それがいかに異質性(heterogeneity)を含むかにみせかけつつも、その実は単なる同質性のなかでの差異化にしか過ぎぬものになっていく。そしてそのような差異化は多様性が本来的にもっているダイナミズムを持つことができない。そればかりか、暗黙の同質性を前提にした単なる差異の一面的強調は、その前提としている同質性への目をくらませ、それへの批判を封じこめていくことにすらなっていく。そこではまさしく利害の不平等が隠された形で巧妙に再生産されていくだけなのである。

 文化を学ぶということは文化の多様性や政治性に目を向ける必要がある。文化と政治との関係だけを取り上げてみても様々なことが見えてくる。政治に反発して発展した文化やその時の政治と共に発展した文化。その逆に衰退した文化。様々な面が見えてくる。そういったことを学ぶというのは、同質性を暗黙のうちに前提することではできない。文化の多様性に目を向けない文化の学習は外から閉じたものになる。そういう閉じた学びは偏狭で貧困な文化観を子どもに教え込むことになる。そういうことから考えると、文化を学ぶというのは難しいこと。きちんと議論をしてカリキュラムを組んで欲しい。