ドリルも文章題も同じ問題がある

そらさんから、

「反復計算学習やドリル」をやりすぎると、思考がパターン化して「文章題やひねった問題、考える問題」が解けなくなる(苦手になる、考えられない脳になる)などの弊害が出るという見解については、どのようにお考えになりますか。

というコメントをいただいたので少し書いておこうと思います。
 まず、ドリルであっても文章題であっても問題であることはそう変わらないということです。

「わかる」ということの意味 新版 (子どもと教育)

「わかる」ということの意味 新版 (子どもと教育)

の中で、

 子どもたちは学校では「答えを出す」ということを、何かしら「正しい手順」に従ってとり行う厳粛な儀式のように考えてしまいがちです。授業では、どういう種類の「問題」のときは、どのような「答えの出し方」に従った“儀式”をとり行うべきか、まず、その模範を「例題」で示されます。そこで“儀式”の執行に当たっての注意すべきところが説明され、そのあとは、「応用問題」や「演算問題」で、儀式の練習をするだけです。
 算数の「文章題」も、本来ならば「足す」とか「引く」とかの演算操作の本当の意味を、現実の問題状況の中で考えさせるというところに主眼があるべきでしょう。ところが、多くの場合、「文章題」の文章は、私たちが日常用いる文章とは異質の、いかにも奇妙な文章であり、まともに「文章から意味を引き出そう」などと考えるとわけがわからなくなります。いわゆる「文章題」とは、「答えの出し方」という儀式(計算のしかた)がきまっていて、それを先におぼえ込んだ人が、自分がどの儀式をとり行うべきかを決めるキイ・ワードが必要最小限に埋め込まれた「文章」なのです。

というように指摘されている。ドリルであっても文章題であっても子どもは考えているのではなく、マニュアルに沿って行動しているだけになっている。子どもが分かっているのは足すことや引くことの意味ではなく、足したり引いたりするための手順だ。
 つまり、「反復計算学習やドリル」をやりすぎると、思考がパターン化して「文章題やひねった問題、考える問題」が解けなくなる(苦手になる、考えられない脳になる)のではなく、ドリルであっても文章題であっても思考はパターン化してしまうということだ。
 また、別の問題もここでは指摘しておきたい。OECDPISA調査の報告書を見ると、数学が日常生活や仕事に結びついていると考えている子どもの割合が日本では低い。なぜこのような結果になるのか。
 それは、数学というのは日常生活と非常に密接なものであり、数学の面白さもそういうところにあるにも関わらず、教室で行われているものは、日常生活とは懸け離れた儀式であり、子どもたちにとって数学は日常とは無関係なものになっている。また、そうあることが求められているという側面もある。
 PISA調査で用いられた問題を、教室の中の儀式に慣れきった子どもたちが見たとき、驚いたはずだし、難しいと思ったはずだ。なぜなら、いわゆる文章題よりも現実に即した、または現実に近い問題の方が総合的な思考力を要求されるからだ。
 また、ここでもう一つ指摘しておきたいのは、PISA調査で用いられたような問題は子どもたちも誰でも日常的に直面し、解決をしている。買い物をするという行為の中にどれほど数学的なものがあふれているか。数学的な処理をどれほど行っているか。学校よりも数学的であるか。そういったことを子どもが意識できない。というよりむしろそういう意識を持つことを阻害されていると言うべきだろうか。
 最後に、昭和22年版 学習指導要領 算数科・数学科編(試案)の「はじめのことば」を長くなるが引用しておきたい。

 教育の場は子供の環境であり,教育のいとなみは,子供の生活を指導するものである。その子供の生活とは,環境に制約をうけながら,なお環境にはたらきかけて,子供が日々にのびて新しいものとして生きていく過程であるといえる。

 したがって,一方においては子供が意識的に環境にはたらきかけていくように指導しなければならない。そしてそのようにさせることによって,子供の環境はだんだん空間的にひろがっていくと共に,内容的にも深まっていく。

 他方においては,このように変わっていく環境に応じて生活していくために,子供が環境を秩序だてていくように指導しなければならない。このようなことをするためには,必然的に子供が今までに体験したことがらや観察したことがらを整理し秩序だてて書き表わしていく必要にせまられる。

 数学教育において,現象を処理していく時に着眼するところは,数的であるか量的であるか,形的であるといえる。

 現象を処理していくことそれ自体は,広い意味において,人間社会に対してのはたらきかけであり,人間社会に対して関心をもっていることを示すものである。このように考えると,現象を処理することは,数学教育の社会的な目標であるといえる。また,現象を処理するためには,当然いろいろな計算や測定をしなければならない。これは数学教育の数学的な目標である。これはまた,社会人として必要欠くことのできないものであるから,社会的な目標であるともいえる。

 これに関係して二つのことが考えられなければならない。その一つは数の計算の仕方を式にまとめたり,測定する時の単位をきめたりすることである。これができなければ,どんなに立派な計算技能をもっていても,またいかに立派な測定技術をもっていても,それらは日常生活において役に立たない。従来,計算力の低下が叫ばれたけれども,その計算力とは,単なる抽象数について示された通りに確実に計算することだけを指してはいなかっただろうか。数・量・形に関する言葉を用いて,それを一つの組織だった形式にまとめること,例えば,加法でできるとか,減法でできるとか等を判断する能力をも指していたかどうか。うたがわしい。これは,わたくしたちとして十分に考えてみなければならないことである。他の一つはいうまでもなく示された通りに計算する能力である。この能力は前者に従属してはじめて意味のあることであって,この関係を無視しては意味のないことである。もしも前者と無関係に考えて指導されるならば社会人として必要なはたらきとはならないで,単に数をもてあそぶものとなってしまうであろう。要は,前者に述べたこと,すなわち,数・量・形に関する言葉を用いてまとめることが,何等の抵抗を感ずることもなく,すらすらとできるようになること,これが後者の目標である。

 なお,附け加えて置きたいことは,数学的な処理を通しての人間のはたらきである。処理の結果として得られた表現は元来客観的なものであることが要求される。しかし,表現されたものは,物自体ではなくて,物からあるものをぬき出して書き表された物であって,その物の一面的な考察の結果にすぎないことは,否定することができない。これを通り抜け,物の真実にせまっていくところに,人間らしさがあるここに数学教育の中に他の教科で目あてとしている人間的なはたらきの必要なわけがある。いいかえると,数学教育における人間性の問題がある。上記の主旨から算数を指導するためには,次のような具体的なすがたをとらねばならない。すなわち数における概数,量における概量,形における概形を考えていく面と,数・量・形についてその正確度を要求していく面と,この二つの方面がなければならない。

 上に述べたことは,次のようにも書き表すことができる。概略の予想をすることなしに,ことがらを処理することは,全体に対する見透しなしにすることになって,ややもすると,結果を盲信することになってくる。どこまでも批判的な態度を養わんとする化学教育においては,このようなことのあってはならないことは,いうまでもないことである。いわば,概数・概量・概形について正しい理解をもつことは,全体の見透しを失わないことや,大きな誤りを犯すまいとする人間的なはたらきにつながるものである。

 すべての事柄は,次のような立場からすれば,大まかなものであるともいえる。しかし,そう考えていただけでは,計算するにも,いろいろな処理をするにも,非常な困難を感ずる。われわれはどうしても抽象的な数・量・形を取り扱う必要にせまられてくる。ここに抽象的なものを取り扱うとなれば,どうしても正確度が要求されてくることになる。これが上に述べた後者にあたるものである。上に述べたことからも,また今述べたことからも,抽象的なものを取り扱うには,それは単なる抽象としてではなく,具体にうらずけされている抽象であることを忘れてはならない。いわば,具体に関する考察の一断面として,その抽象が取り上げられなくてはならないということである。いいかえれば,このような抽象は,あくまでも全体における個としての立場であり,全体にうらずけされていることを忘れてはならない。このような態度で抽象に対していくことこそ,社会において各人の個性や自由を主張するときの態度を作るのに役立つものである。

 以上のようなことを考えた上で行なわれる算数教育であって,はじめて数理的なはたらきをねるものであると同時に,具体的な事象の処理を通して人間性の内面にうったえて,生活を指導するものとなることができるのである。