違うことで安心する

 園児が殺害された事件について少し書いておきたい。まず、亡くなられた方のご冥福をお祈りします。
 マスコミは昨日から様々な情報を流している。それらを見聞きしながら、「自分とは違う」「近くにはそういう人はいない」と「違い」を探し出して安心している人の姿を思い浮かべる。
 真相糾明こそが安心につながると書いたものもある。しかし、その真相糾明とは何か。「自分たちとは違う」「異常である」ということを様々な情報を引っ張り出してきて強調していくことではないか。違うものに対して不安を抱くことは避けられないことかもしれない。しかし、違うものを強調していく今の「真相糾明」のやり方には違和感を感じる。
 誰にでも共通するものが事件を引き起こす契機になっていたとしても、様々な情報、不断なら何でもない情報を持ち出してきて、それと様々なことを強引に結びつけてしまう。それは違いを強調するために行われていること。
 今回の事件では国籍の違いなどが原因のように語られている。しかし、その違いはそれ程大きなものなのか。大きなものであったとしたらそのような社会が問題ではないのか。違うものに対する理解や受容が深まっていない社会には問題はないのか。
 言語の違いや文化の違い。どこにだって誰にだってあること。そういう違いに悩むことは決して特別なことではない。その違いを少しでも理解し受け入れようとする社会であるなら、その葛藤は緩和される。今回、そういう違いを強調するなら、同時に社会についても問うべきだ。
 違いを見つけて安心している。その姿は社会をよく反映している。その社会についても目を向けるべきだ。