もう一つの教育論争について

 そらさんからこちらにコメントをいただいたのでそれについて少し書いていこうと思います。今回は、そらさんのブログ(http://blog.livedoor.jp/sola_41/)の「もう1つの教育論争」というエントリーから引用しながら少しコメントを書いて、次回以降それに対する補足をしていこうと思います。

批判的な方の意見(私なりのまとめです)
①暗記的な学習では、応用がきかない
②文章題を面倒くさがる、苦手になる
③概念を「考える・理解する」ことが優先で、計算が「できる」のは後だ
④単純作業を繰り返すことで「考える力」は壊れてしまう
⑤実際、九九を覚えてなくても東大の主席で、薬学博士になった人もいる
⑥うちの子(生徒)はこれでうまくいった

肯定的な方の意見(〃)
①「できる」ことで自信につながる、その後「理解すればよい」
②基本的な計算ができなければ、応用的な文章題ができるはずがない
③基本的な反復をすると脳(前頭葉)が活性化する
④日本の産業、技術の発展を支えたのは、九九やそろばんなどの基礎計算力だ
⑤陰山さんの赴任する学校では学力面、生活面などで改善の実績がある
⑥うちの子(生徒)はこれでうまくいった

 そらさんは次のようにまとめられています。まず、批判的な見方の意見(以下、批判的な見方)の「概念を「考える・理解する」ことが優先で、計算が「できる」のは後だ」というものと肯定的な見方の意見(以下、肯定的な見方)の「基本的な計算ができなければ、応用的な文章題ができるはずがない」についてです。
 よく、基礎・基本と応用というのがあり、基礎・基本が先で応用が後と言われる。しかし、基礎・基本と応用という関係は後先ではなく相互的な関係として捉えるべきだ。また、どちらが大事かというものではない。
 例えば、教科は基礎・基本、総合的な学習は応用などという主張があるが、その主張は妥当ではない。なぜなら、教科から総合的な学習へ、総合的な学習から教科へという学びが展開されるからだ。そこに後先はなく、軽重もない。両者は相互的な関係にある。これは学校における学びだけでなく学び一般にも言えることだ。
 次に肯定的な見方の「基本的な反復をすると脳(前頭葉)が活性化する」ということについて。これは非常に誤解を招いている。脳が活性することと学力の向上は直接イコールで結べるものではない。しかし、一般的にはそう受け取られている面がある。
 過去に脳科学については少し書いたが、脳科学の成果を採り入れていくのは良いことだ。しかし、それを短絡的に捉えてはいけない。
 肯定的な見方の「日本の産業、技術の発展を支えたのは、九九やそろばんなどの基礎計算力だ」について。これも誤解されている。日本の産業や技術の発展を支えたのは、どのような状況の子どもでも教育を受けられることを最大限保障し、他国にはないくらい高い就学率によって、個人の能力をチームの中で活かしながら成果を上げていくという社会だったからだ。アメリカなど諸外国の教育政策や、諸外国における日本の教育に対する評価を見れば、それがよく分かる。
 最後に少しだけ。よく、インドでは九九がとか、中国では基礎・基本がなどと言われ、日本は後れを取るという主張がある。しかし、その主張はおかしい。日本と他国、特にこれから経済発展をしようとする国とでは目標とするものや子どもたちの学びに対する意識も異なる。かつて日本の子どもも経済成長の時代に学ぶ意欲が高かった。インドや中国は今、その段階だ。どの国もほぼ同じような段階を経てきた。遅れるというものではない。
 アメリカやイギリスで「教育の卓越性」というのが盛んに主張された。それは、自分たちの過去の「威信」を取り戻そうとするものだ。日本は今、同じことを考えている。未来を拓くのではなく過去の威信にすがりついているだけだ。「基礎へもどれ」という主張は、「昔にもどれ」という主張と同じ方向を向いている。
 もし、日本の教育が後れを取るのだとしたら、その「昔にもどれ」という主張にしがみついているのが大きな原因だろう。次回からは少し、詳しく書いていきたい。