防衛的教育

学校文化への挑戦―批判的教育研究の最前線

学校文化への挑戦―批判的教育研究の最前線

 長尾彰夫 「6章 学校におけるカリキュラム・コントロール」の中で長尾氏は次のように指摘している。

 

学校の教師たちは、自らの仕事がスムースに効果的で、できる限り生徒からの抵抗が少ないものであることを望んでいるという点において、きわめて自己防衛的なのである。カリキュラムというものを、生徒が学校知にアクセスしていく学習環境の全体として見るとき、この防衛的教育は大きな意味をもつものとなる。防衛的教育は単に知識のコントロールにとどまらず、生徒の行動と教室そのものを支配しコントロールすることにもなっているのである。授業内容を単純化し、複雑なクラス討論といったものを避けようとすることがかえって生徒たちのなかに学校知への不信(disbelief)と、学習過程からの離脱(disengagement)を生み出し、教室の秩序を守ろうとすることが生徒を黙従(acquiesce)へと向かわせるのである。


 長尾氏は「防衛的教育(defensive teaching)」について○断片化(fragmentation) ○神秘化(mystification) ○省略化(omission) ○防衛的単純化(defensive simplification)などの特徴について述べている。そして、

 

防衛的教育は、個々の教師の政治的、あるいは教育的立場や、生徒の能力の違いといったようなことを越えて見られるのである。

と指摘している。さらに、

 

この防衛的教育にかかわって、教師の教育における技術の問題、とくにその脱技能化(de-skilling)という問題がある。管理職は学校の秩序維持に対するほどには授業に関心を払ってはいない。だから教師は授業で生徒たちに討論を保障しているかどうかといったことが報酬の対象ではなく、教材をすべてカバーしていないことの方がより制裁を受けやすいものだと知っている。そういったなかで、カリキュラムのパッケージ化がすすみ、生徒に黙従を強いるような単純化が行われるのだが、それがひいては教師の仕事を取るに足らぬつまらないものとし、脱技能化させることになっていくのである。

と指摘している。
 この脱技能化は最近特に強まっているような気がする。それは、

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というような動きが盛んになっているからだ。このような動向はカリキュラムのパッケージ化に止まらず「授業のパッケージ化」につながるからだ。授業のパッケージ化は「学力低下」というような危機(本当に危機なのかどうかきちんと考えないといけない)に対する「防衛的教育」であると考えられるからだ。
 授業のパッケージ化は、パッケージ化された授業を如何にこなすかということへの関心を強めることになる。それは、カリキュラムのパッケージ化によって、脱技能化された教員が、カリキュラムから授業を創り出していくということができなくなってきたのと同じように授業を創り出すということができなくなってしまう。
 これでは、教員は提供されるカリキュラムと授業をただ消費しているだけではないか。教員がいかに専門職であると自分を位置づけても、パッケージ化されたものを消費している立場にあるなら、教員は誰にでもできると言われても仕方のないことではないか。

不能化する教師たち―教育技術・法則化症候群

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の中で

さて、「不能化」という言葉を少し説明しておきます。本論で何度も出てきますが、サービス制度によって、自律性を麻痺させられた状態に化すことを言います。「無能」なのではありません。


ということが書かれてあるが、教員は「脱技能化」され、「不能化」しているのではないか。
 最後に少しだけ。教員でもないものがこのようなことを書くのは、教員に対して大変失礼なことかもしれない。しかし、教員という職業が取るに足りないものへとなってしまうのではないかという心配をしてしまう。そこで今回のようなことを書いた。