総合的な学習は学力充実には必要ない?

新設校、小中一貫教育の概要明らかに

 

香川県高松市教委は一日、松島小学校と光洋中学校を統合して二〇〇九年度に開校する新設校での小中一貫教育の概要と校舎の基本設計案を明らかにした。小中九年間を四、三、二年に区分けした教育カリキュラムを設定し、小一から英語教育を取り入れるほか、国数英社理の五教科と体育の授業時間を増やし、学力と体力の充実を目指す。校舎のフロア配置は各区分ごとに教室をまとめ、小中の垣根を取り払う。

 

国の構造改革特区制度を活用して授業時間を現行より週一時間多く確保した上で、総合学習の時間を全廃し、五教科と体育の時間に充てる。小一からの英語教育のほか、職業感や環境について学ぶ教科も新設する。

 総合的な学習の時間を全廃するというのは、学力の充実には必要がないという判断なのだろう。総合的な学習をどう位置づけるか、周囲はどう支援するかなどまだ課題が山積みの状況だ。全廃するというのはそれ以降の試行錯誤はしないということ。成果が現れるのを待つこともなく駄目だという烙印を押されるのはどうも納得いかない。

追記

 言葉がかなり足りず、きちんと伝わらないところがあるので追加。

 同記事では、

小一からの英語教育のほか、職業感や環境について学ぶ教科も新設する。

と書かれてあるので、総合的な学習の時間はそれに置き換わったと見ることができると言われそうだ。しかし、それは大きく変わってしまうことであり、総合的な学習の時間の特質を損なうと考えている。
 総合的な学習の時間の特質は「フレキシブル」であるということだ。学習指導要領にはねらいしか示されていない。これは、学校や教師の裁量が大きく認められているということだ。それが、英語や環境などというように最初から学びが規定されてしまうと、その裁量は狭くなる。
 例えば、総合的な学習の時間に割り当てられている総単位時間の半分学年や学校で共通のテーマにしよう。それ以外はクラスで判断していこうということが出来なくなる。
 今度、国語で川の環境についての評論文をやる。その前に子どもたちを近くに川があるから連れて行こう。そこで川に入ったりして見たり、感じたりさせる。そして国語の時間に評論文を読む。子どもたちは、「これはこの間見たのと同じだね。」「これはこの間見たこととは違う」など様々なことを考える。それは国語だけではできなかったことであり、理科や社会という時間にすると、子どもたちが見たまま、感じたままというのができなくなることがある。総合はそういう時間に使える。それはねらいだけで後は裁量に任されているからできることだ。
 教科の時間にただ子どもに見たまま、感じたままで良いんだよとはなかなか言えない。子どもも教科の時間は評価があるということや教科であるということで、その範囲を超えて何かをするということに抵抗を持ったりもする。
 総合的な学習の時間を英語や環境というようなものと置き換えるということはできない。だから、高松市教委の考えているカリキュラムでは総合的な学習の時間は全廃と言っていい。
 繰り返しになるが、総合的な学習の時間という大きな可能性のあるものをこう簡単に放棄するのは無謀だと思う。