いつの時代も悩みは一緒

 木下竹次は『学習研究』の中で次のように書いている。(漢字などは原文通りではない部分がある)

 合科学習の見込が附いて自身が得られたにしても尚実施の思案には苦しまざるを得なかった。

  1. 家庭教育には法定上の要求はなくて自然の発展に任せてよいが学校教育には法令上一定の要求があって是非共その要求を充たさなくてはならぬ。
  2. 学校教育には堅い伝統的形式があって之を破ることは容易でない。且其の型式が法令によって間接に維持せられて居ることが多い。彼の極端な分科的取扱、厳格な形式的画一的時間割、各学年配当の教科書の取扱の如きは差支なき範囲内にて適宜に之を変更せねばならぬ。
  3. 改良方案が過酷に取り扱われることは世間一般のことである。慣例違反は多く法令違反と曲解せられて非難を受け易い。広い深い根底の上に立って大きく伸ばそうとする学習法の実施に於ては最初の間は所謂学力の低下を来さないとも限らない。教師は之を恐れて実施の決心を得がたい。此等の困難を如何にしょうか。
  4. 外間の誠意ある批評と嫉妬的非難とが相助けて遂には父兄の反対となり革新挫折とならぬとも限らない。寧ろ之は世間ありがちのことである。此等を如何にするか。

 これが書かれたのは大正だ。今でも全く同じようなことで教員は悩んでいる。この悩みはこれからも解消されないかもしれない。しかし、教員には常にチャレンジしてほしいなと思う。
 話は少し変わるが、昔のこういうのを読んでいると、その頃の教員(木下の場合は一般的な意味の教員と言うべきではないかもしれないが)は意欲などがすごく充実していたんじゃないかと思う。なぜその頃の教員は日々の教育や研究に意欲的に取り組めたのだろうか。今は教育と研究の両方を充実させるというのはなかなか難しいように思う。