失われていくもの

研究指定校方式改め
企画競わせ予算配分

 

京都府教委は2006年度から、学校の自立性を高めるため、トップダウンで決めた研究指定校に予算を配分するこれまでの手法を改め、各校から企画を公募したり、コンペで競わせた結果に応じて予算を配分する方式に切り替える。同時に校長や教育局長の権限強化を図ることで、教育の現地・現場主義を目指す考えだ。府教委は事業費として計2200万円を06年度当初予算案に盛り込んだ。

 インターネットや新聞記事のデータベースなどを使って、「学力」「読解力」などのキーワードで検索をする。ヒット数の多いものをテーマに据える。短期で成果が上げられるというのが見込まれるような計画を立てる。私がどうしてもこの予算がほしいと思えばこのようにする。おそらく、採択されるのはヒット数の多いものと同じになるだろうから。実際の学校現場ではこういうことはしないだろう。
 以前「「地道に」「ゆっくりと着実に」では駄目でしょうか」というエントリーで

 

最近、教育の中で「地道に」「ゆっくりと着実に」ということが無くなってきたのではないかと感じることがある。
 様々な教育施策が次々と打ち出され、その変化はめまぐるしい。そういう中で教師も子どもも「地道に」何かに取り組むことが無くなってきている。
 また、何かをやったらすぐに成果を求め、それで成果が上がっていないと判断すると節操も何もなく別のものに切り替える。そして、またすぐに成果が上がることを求める。
 流行している、報道でこれが良いようだというものを教師や学校、家庭は取り入れないと駄目なのだと言わんばかりの雰囲気。これをこつこつと地道にやっていけば良いのにと思っていても、そういうものではなく流行の最先端のものを取り入れることを要求される。
 新採の教師にキャリアを積んだ教師と同じことを要求する。そのための取り組みが必要だと言われる。教師が採用後に「地道に」「着実に」キャリアを積み上げていくということができなくなっている。
 教育が何となくせわしなく見える。社会の変化するスピードが速いから「地道に」「ゆっくりと着実に」では駄目なのだろうか。そういう社会だからこそしっかりとした足場を作り上げることが必要なのではないかと思う。それが教育の役目ではないだろうか。成長を待つということをもっと大事にしたらどうだろう。

というように書いた。「この取り組みを10年続けてます。」「この取り組みをこれからも続けたい」というようなことを教師の口から聞くことができなくなってしまうのではないか。
 流行に流されず、大きな成果を上げなくても試行錯誤をしている教師の力量は着実に向上していく。そういう教師は流行や時代の変化からは決して取り残されない。きちんと対応できる力を持っている。そのような教師の文化を京都府教育委員会の取り組みは破壊していくことになる。
 地味なものではなく目前の、流行の問題。移ろいやすいものであろうと何であろうとも。そういうものは構わない。とにかくそれをやらないといけない。それができるのが一流の教師なのだと。間違った文化がはびこる。
 以前、「子どもや教師の成長を待つこと」というエントリーで

 

 今の教育に欠けるものは「成長を待つ」ということ。子どもや教師がそう簡単に成長するはずはないのに、短期間で成果をあげることが求められている。そういう過大な期待が子どもや教師の成長を妨げている。
 「成長を待つ」ことを欠いてしまうと、教師の力量も子どもの学力も付け焼き刃となり、定着しない。一時的には良くても、それは持続しない。
 子どもや教師の成長を待つというのは、変化が早く激しい時代では不安なことかもしれない。しかし、それを欠いてしまえば時代の変化に流されるだけということになりかねない。今こそ「成長を待つ」これを大切にしたい。

というように書いた。
 教師の資質の向上と言うけれど。このようなものが横行する限り、教師は成長することはなく使い捨てられていくのだ。