「公教育」という言葉の意味

【エディターズEye】私立校が国旗・国歌を教えない理由+(1/2ページ) - MSN産経ニュース 【エディターズEye】私立校が国旗・国歌を教えない理由+(1/2ページ) - MSN産経ニュース

 この産経新聞の記事に

 私立男子校御三家の一つ、麻布中学・高校(東京都港区)校長の「国旗・国歌発言」が話題を呼んでいる。

 麻布の氷上信広校長は小学館のニュースサイト「NEWSポストセブン」で、卒業式や入学式での国旗掲揚・国歌斉唱について「私立校は関係がありません」と断言。今後も国旗掲揚・国歌斉唱を行わないと強調している。

 大きな勘違いをしているようだ。私立学校は学校教育法1条で定められた「学校」であり、都道府県の設置認可を受け、国や都道府県から多額の助成金を受けている公教育の機関だ。学習指導要領を守る義務がある。

とある。まず、以前http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20080222/1203613243などにも書いたことがあるけれど、教育は私益のためでは無く公益のために行われる。だから公立の学校も私立の学校も公益のために教育を行い、そこに税金が使われることになる。産経新聞のこの記事を書いた記者は学習指導要領の遵守が税金の投入の基準であるかのように主張している。しかし、その主張は妥当であろうか。
 まず、学習指導要領の遵守(産経新聞の記事では国旗・国歌の問題)について。学習指導要領についてはhttp://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20071018/1192668792で引用した
アップルの言葉を再引用したい。

 ここ20年の間に、学校において誰の知識が社会的に正統化されてきているのか、という問いに答えを与えるということでは、かなり大きな進展がなされている。理解すべきこともまだ多く残されているが、以前よりは、学校知識と社会全体との関係のより適切な理解にかなり近づいてはいる。しかしながら、誰の文化を教えるのかという問いを明らかにする上で主要な役割を演じているある人工物には、実際に十分な注意が払われてこなかった。[その人工物とは]教科書のことである。もちろん、これまで過去何年かの間に教科書に関する研究は文字通り数千とあった。しかし、概して最近に至るまで、そのほとんどが文化のポリティックスに関心を払わないままでいたのである。あまりにも多くの研究者たちが、何年も前にC・ライト・ミルズ(C.Wright Mills)がつくり出したフレーズ「抽象的経験主義者(abstract empiricists)」の特徴をいまだに表しているかのようである。このような「社会的事象を数として漁ったり集めたりする人々」は、自らを取り巻く不平等の諸関係と無関係のままでいるのだ。

 これはゆゆしき問題である。というのも、右派連合が繰り返し教科書に焦点を合わせて紛れもなく示しているように、教科書というのは単に「事実」を「配達するシステム(delivery systems)」ではないからだ。教科書は同時に、政治的・経済的・文化的な活動、戦い、そして妥協の産物なのである。それは、現実の利害を担った現実の人々によって、考えられ、構成され、そして著されるものである。教科書は、市場、資源、そして権力に関する政治的・経済的制約の中で出版される。そして、教科書が何を意味し、どのように使われるのかをめぐり、関わり方の明らかに異なるコミュニティや教師と生徒までもが争い合うのである。

 私がこれまで一連の書物の中で論じてきたように、学校カリキュラムを中立的な知識だと思うのは世間知らずである。むしろ、正統的知識とみなされるものは、確認しうる階級、人種、ジェンダー、宗教グループの間での複雑な権力諸関係や闘争の結果なのである。このように、教育と権力は分かちがたい二連対句(couplet)である。社会的激変のときにこそ、この教育と権力の関係性が最も明白になってくる。そのような関係性は、カリキュラムの中に自らの歴史や知識を盛り込もうとする、女性たち、有色の人々、その他の人々による闘いの中で明らかにされてきたし、今も明らかにされ続けている。経済危機やイデオロギー・権威諸関係における危機に駆り立てられ、[教育と権力の]関係性は、ここ10年の間でさらにいっそう明らかになってきているし、学校教育に対して復活する保守派の攻撃のなかにも、それが明らかになってきている。権威主義的な大衆主義(authoritarian populism)が時代の風潮となり、ニュー・ライトが学校教育の目標、内容、そして過程にその力を発揮し、それは少なからず成功しているのである。

 学習指導要領は中立的なものでは無い。その学習指導要領の遵守がそのまま公教育の担う公益につながるだろうか。さらに、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070206/1170723861で引用した松下良一氏の言葉を再引用したい。

 戦後日本(特に1950年代半ば以降)においては、「学校教育の政治からの自律」の旗印の下に、学校教育から政治的活動を排除しようとする動きが顕著であったが、実際には学校は政治に翻弄され続けてきた。そこで実際に起こったことは、国家や経済界の立場や活動を擁護あるいは正当化する意識を「国民」に与えると同時に、それらの立場や活動に異議を申し立てたり抵抗するような意識をできるだけ排除することであった。そこでは政治活動は、「学校教育の政治からの自律」の原則を犯さぬよう、あからさまな政治的教化によってではなく、利益(私的利益・地域的利益)の誘導を通じて行われる。すなわち、一見中立的だが実際には現行の政治システムや経済システムの維持と正当化に貢献する知識や態度が、「学習する側の利益になる」という名目で教え込まれる。そのため圧倒的多数の「国民」(子ども・親・教師)は、「自分のためになる」「子どものためになる」という理由で、その政治活動としての学校教育を、政治活動であることを意識しないままに受け入れてきた。しかも、学校教育が自己目的化するにつれて、「国民」はその政治活動=教育を自ら積極的に求めるようにさえなる。その結果「国民」は、国家や経済界の立場や活動に抵抗しないことを余儀なくされるというよりも、自ら進んでそれに抵抗しなくなった。

 このようにして生じたのは、教育を受けた者の政治意識の剥奪である。ここでいう政治意識の剥奪とは、政治が政治であることを隠して強制され、その強制を自発的に受け入れるという現実の中で、子どもや親だけでなく教師も、政治に対して無関心になり、無知になったことである。すなわち、自らが政治に翻弄されているにもかかわらず、そのことに問題関心や問題意識をもたず、その蹂躙状態に甘んじるようになったことである。

 学習指導要領の遵守が税金投入の条件となるならば、それは「教育を受けた者の政治意識の剥奪」を意図する者に、最も効果的な手段を与えるだけだ。それが公益だろうか。
 公立も私立も公教育を担う。その公教育は公益のためにある。だからこそ税金は使われる。それをもう一度主張しておきたい。