教科書の記述に問題があるのはなぜか

 あるブログで,教科書の記述に問題があるのはなぜかという趣旨のエントリーを読んだ。そこでは,教科書の検定基準に問題があるとし,問題とされる記述が示されていた。もし,教科書検定基準が現在と180度異なるものになったとしても教科書の記述が問題なのは変わらないだろうにと思いながら読んだ。
 以前,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20080520/1211211546で教科書の記述を根拠にして「真実しか書かない論文」を書くという作り話を書いた。日本の教科書記述の問題の議論を想定して書いた。
 教科書の記述をめぐる議論は常に一方通行の主張の投げ合いになっている。そこには学術的な「議論」や「前進」が無い。そうなる理由は,教科書の記述で白黒はっきりさせるとか勝負を付けるという発想しかないから。教科書の記述は論文の正当性やそれが真実であるという根拠にはならない。それにも関わらず,教科書記述の問題は,教科書の記述によって自らの主張をいかに真実であると認めさせるか,正当性を認めさせるかにこだわっている。
 教科書に記述されていることや記述されようとしていることが事実であるか正当性があるかという問題は,教科書の記述ではなく,専門家などの議論であったり,検証であったりというところで白黒はっきりさせればいいし,勝負を付ければいい。
 そうした過程を通り越して,これが真実だ,正当なんだとして教科書に記述させ,その記述を根拠として真実であるとか正当性があるという主張をする。それは,教科書という虚構の中で積み木を積み上げたり,崩したりしているだけだし,それを見て一喜一憂しているだけ。その積み木は,虚構の中でしか積み上げることも崩すこともできない。虚構の中の積み木は学術的な前進をもたらさない。
 学術的な前進が無いのに,基準が変わっただけで問題が解決するとは思わない。虚構から抜け出して,互いに議論したり,検証したりということをやっていくべきだ。