支えることと支えられること

学校は楽園でも娯楽施設でもない

 いつも読ませていただいているおかにゃんさんのブログ。このエントリーを読んで考えたことを少しだけ書いておきたい。
 おかにゃんさんが述べられているように,学校は単に楽しい場所というものではない。そうした学校で近年特に忘れられていることがある。
 以前,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070831/1188514263で松下良平氏の次のような言葉を引用したことがある。

 近代学校が登場するはるか以前から存続し、今日でも人間の成長にとって最も大きな影響力をもっているのは、次のような意味でのより根源的な学びと教えである。すなわち、道なき道で、未知の他者や出来事と出会い、そこで生じた困難と全身全霊を傾けて格闘することによって、結果として一定の知識や技や知恵を身につけ、他者や世界との関係を築き、自分を築き上げていく学びであり、それを傍らで導き、支えるものとしての教えである。
 そこでは人びとは、学びを通じた〈知や技の向上=世界が広がること=他者との交わり=自己の成長〉に深い悦びをおぼえる。だがその悦びは、自己を取り巻く世界や他者と格闘したり、自らの力で知や技をつくりだしたり、古い自己から脱皮したりするときの苦しさや痛みから切り離すことはできない。そこでは"教師"に必要なのはまず、学ぶ者が学びの苦しみや辛さから目を背けないように励まし、支えることだといってもよい。

 松下氏の言葉は学校のあり方にも通じるものがある。学校が学びの場である限り,そこは単に「楽しい」「楽な」場所ではない。だから,そこになくてはならないものは「道なき道で、未知の他者や出来事と出会い、そこで生じた困難と全身全霊を傾けて格闘することによって、結果として一定の知識や技や知恵を身につけ、他者や世界との関係を築き、自分を築き上げていく学びであり、それを傍らで導き、支えるものとしての教え」であると思う。近年忘れ去られているものは,松下氏の言う意味での学びと教えであり,その空間としての学校のあり方だ。
 このエントリーのタイトルに「支えることと支えられること」とつけたのは,教師が支え,子どもが支えられるだけでなく,その逆もあると思うからだ。
 教育が様々なものとの相互関係で成立するものである限り,そこには葛藤や不安などが生じることがある。そうしたときに,葛藤や不安を解消するのは「支えることと支えられること」じゃないかと思う。教育において生じた葛藤や不安を支えることと支えられることで解消するのではなく,強力な力などを用いて強制的に解消することが優先し,横行し,主張されている。そうした状況のなかにある学校は,そこで過ごす人にとって居づらい場所であり,そこに関わる人たちにとって関わりづらい場所なのではないか。
 学校は,単に面白く楽しいだけではないし,単に厳しくつらい場所でもない。松下氏の言う教えと学びが最優先され,支えることと支えられることが何より大事にされる場所であるべき。そうした学校のあり方を追求していくべきだと思う。