いろんな図式の中からまずは抜け出すこと

学校選択制は、「ダメな学校」を構造的に作り出す
?「教育の質の選択」という神話

 広田氏の主張については様々な意見が寄せられて議論が深まればいいなと思う。寄せられているコメントなどを読みながら考えたことをいくつか書いておきたい。まず必要なことは蛸壺化した議論(広田氏の議論は必ずしも蛸壺化しているとは思わないけれど,毎回こういう批判が出ることは残念なこと。)の元になっている様々な「図式」からまずは抜け出してみることが必要だろうと思う。
 一つ目の図式は,「公教育」という言葉をめぐる図式。「公教育」ということばが「公立学校」や「公立学校の教育」とほぼイコールの意味で語られる図式からまず抜け出すことが必要だろうと思う。
 以前,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20060813/1155484412でラバリーの論文を紹介した。これは「公教育」を前提として論じられている。その時の「公教育」とは,「公立」「私立」を区別するという図式ではなく公立・私立ともに担う「公教育」という本来の意味で用いられている。「公立」「私立」ともに「公教育」を担う。そうであるならば,「公教育」のなかから「脱出」するというオプションには矛盾が生じる。
 日本では「私教育」というものが制度としてきちんと確立されていないし,そういう議論が十分されていない。そうした状況では,「公教育」が「公立」を意味してしまうという意味の取り違えがあったとしても仕方がないと言うかも知れない。けれども,それはおかしな話で,意味を混同しないためにも「私教育」の議論をきちんとやるべき。
 「公教育」が「公立」と混同されて語られるとき,注意すべきは「私立」を「私企業」と混同することだ。その議論では「私立」がいかにも制度面などで「自由が保障されている」かのように語り,それを「公立」と対置しようとする。けれども,「私立」の「自由の保障」は「公教育」を担うことを前提とする。「公立」も「私立」もその点では同じ立場にある。「私立」が「私教育」をもし行うのであれば,公共財として存在するのではないから税金等の投入はありえない。
 日本の「私立」を諸外国の「私立」と比較してみるといい。「私立」の置かれている立場や担うべきとされている役割などで違いを見つけることができる。
 「公教育」を「公立」「私立」という図式で捉えないこと。それがまず一つ目。
 二つ目に「改革賛成」「改革反対」というのを「改革する」「改革しない」という図式で捉えないこと。
 「改革」は常に必要なこと。それは日本だけでなく,諸外国でも教育改革が今まで行われてきたことがそれをよく示している。けれども,それは「必要な改革」か「必要でない改革」というものが常に議論され追求されてこそ意味のあること。
 よく私はこのブログで「改革」に「否定的」なことを書いている。それは,必要のない改革をしているか,必要な改革であってもデメリットや弊害をきちんと押さえ込むことができないと判断した場合に反対してきた。
 近年特に目立つのが「劇薬」が必要という主張。でも,それは大きな間違い。「劇薬」が広範囲に長期間その悪影響を与えない,もしくはその結果について「責任をとる」ということがあれば容認できるかも知れない。2008年1月9日の朝日新聞天声人語で「まずはやってみなはれ」と主張していたけれど,教育改革が必要であるとしても,「劇薬」を「まずはやってみなはれ」でやるべきじゃない。「劇薬」であるからこそ,その副作用,悪影響を押さえ込めるということが保障されるように議論を重ねる必要がある。
 けれども,「改革賛成」「改革反対」というのが「改革をする」「改革しない」という図式のなかでしか議論されないと,改革をすることが目的になって「まずはやってみなはれ」で劇薬が投入される。
 教育に劇薬を投入したら,直接・間接に子どもに影響がある。子どもにとってそれが望ましくないとなったとき,「劇薬」を「まずはやってみなはれ」で投入した大人はどう責任を取るのか。その悪影響をどうやって押さえ込むのか。その議論さえまともにできない。
 改革の結果,悪影響が出ないようにまずはすること。それは多角的な視点から議論が必要。けれども,今の議論は「改革賛成=改革する」「改革反対=改革しない」という議論なので,議論が深まらないまま,改革に反対するなら排除しようとか,改革に反対しても劇薬を投入してやれとなる。それでは議論は一向に深まらないし,問題は解決しない。
 「改革賛成=改革する」「改革反対=改革しない」という図式で議論しないこと。それが二つ目。
 三つ目は,子どもや親などを消費者とし,学校や教師をサービス提供者として捉えるという図式。
 これは,いわゆる「ゆとり教育」路線の中で強く主張されてきた。「ゆとり教育」路線の重要な側面の一つでもある。それは今でも変わらない。
 その図式では,消費者の権利の拡充が主張されるけれど,イギリスで起きたように最後にはサービス提供者によってその権利の拡充は左右される。消費者は「賢い選択」をしていたはずが,いつの間にか「サービス提供者」の用意するサービスをただ選ばされていたという状況に変わる。
 サービス提供者は消費者自身であることもその図式では可能なはずだが,先ほど書いたように「私教育」というオプションがない状況であり,自分たちで学校を作るというオプションが限られた場合のみ可能という状況では起こりえない。
 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070419/1176994119で大内裕和氏の論文を紹介したけれど,大内氏がそこで主張したのは,「消費者」「サービス提供者」という図式の中で,実際には消費者と想定される側の権利が意識されず,行使することも難しくなっていくということ。
 「公教育」という問題に話を少し戻すと,「公教育」では「公益」が追求される。けれども,それは自明なものではない。議論を重ねたり,衝突しながら「公益」は追求されていく。その権利を持ち,その立場にあるのは,大きく言えば教育に関わる「当事者」すべてであり,狭く捉えれば保護者や子ども,教師や行政ということになる。その場合,一方だけが強い権限を持ちすぎたり,一方だけが主張をできるというものではない。そこには「消費者」「サービス提供者」という図式で語られるような「消費者」優先はない。
 「消費者」「サービス提供者」という図式のなかで捉えると,当事者として関わるべきところで関われなかったり,当事者であれば可能なことを過剰な主張として退けられたりする。だからこそ,その図式から抜け出すべき。
 忘れてはいけないのが「消費者」「サービス提供者」という図式から抜け出すには「私教育」の議論も必要になるということ。その議論を避けていてはいけない。
 最後に「私教育」について少し。「私教育」は日本においては現在の「学校制度」からの脱出オプションとしてノンオフィシャルに試みられ,追求されてきた側面がある。ここでいう「私教育」はそれとは同じものではない。ここでいう「私教育」は,厳密な定義ができていないけれども,「公教育」と対置するものとして想定している。
 私は個人として「私教育」に賛成の立場にはない。けれども,その議論をさせないとか,する必要がないとは考えていない。「私教育」が想定されなければ,ここで述べてきたような図式から抜け出せないと考えているからだ。
 ここで指摘したようなことについては自分自身もう少し整理すべきだと思う。これからも時折この問題を取り上げられればと思う。