さらばゆとり教育で去っていくもの

幼、小、中、30年ぶり授業時間増 中教審が年度内に告示へComments

さらば「ゆとり」…30年ぶり授業時間増 中教審

小中の授業時間増など答申=次期指導要領、ゆとり転換?中教審

中教審>授業時間1割増を答申 「ゆとり教育」実質見直しComments

小中授業時間30年ぶり増、「小5から英語」…中教審答申

 産経新聞がイザ!の記事で「さらば「ゆとり」」という題を付けている。では,去っていくものとは何だろうか。
 それは,教育政策をきちんと検証し,議論を積み上げ,教育政策を立案していく,そういうものへと教育行政を転換させる機会だ。
 このブログで何度も繰り返し書いていることだけれども,いわゆる「ゆとり教育」なるものはきちんと検証されることなく「さらば」ということになろうとしている。それは,いわゆる「ゆとり教育」から得られた教訓としての「教育政策の立案にはきちんとした検証が欠かせない」というものを全く生かしていないということでもある。
 「ゆとり教育」というものがいつからか「授業時数の減少」「学習する内容の削減」などとして捉えられ,理解されてきた。それが今回の中教審答申に色濃く反映されている。
 以前,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070922/1190391320で「ゆとり教育」は「パッチワーク」のようなものだと表現した。そして,その政策の多様性に目を向けてみたらと書いた。中教審の答申は,いわゆる「ゆとり教育」の全貌を明らかにしないまま,ゆとり教育を始末しようとしている。
 何が問題であったのか。何を次に生かすのか,残すのか。何を捨てるのか。そういうことがどれほど議論されてきただろうか。「ゆとり教育」というものが一部だけを捉えて理解されてきたために,その議論は深まることもなく結論が出されようとしている。
 例えば,授業時数の増加というものを取ってみても,http://cala99.at.webry.info/200709/article_2.htmlで書かれていることや,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070831/1188572554で書いたように,実質は授業時数の増減はない。そういうものの何処がゆとり教育からの転換なのだろうか。
 「ゆとり教育からの転換」「ゆとり教育の見直し」というのは,実態のつかめないゴーストに責任を押しつけて,葬り去るということだ。それがどうして歓迎されなければならないのか。
 ゆとり教育とともに葬り去られようとしているものは,腰の据わった教育施策,教育行政であり,地に足の付いた教育論議だ。
 教育改革は戦後ずっと行われてきた。そこに共通しているのは「その場しのぎ」で「見切り発車」の改革だったということ。http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070519/1179520866で紹介したような自民党有志の指摘する問題を一貫して抱えていた。
 今回はその問題を解決するための「教育改革の改革」の絶好の機会だった。けれども,冒頭でも書いたように,「ゆとり教育」とともにその機会も去っていこうとしている。この機会を逃すことは,教育にとって大きな損失だ。「ゆとり教育」が去っていくことを歓迎する論調の中でこれだけは指摘しておきたい。