教科書が中立であるなどという幻想を抱かないこと

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以下本書より引用

 ここ20年の間に、学校において誰の知識が社会的に正統化されてきているのか、という問いに答えを与えるということでは、かなり大きな進展がなされている。理解すべきこともまだ多く残されているが、以前よりは、学校知識と社会全体との関係のより適切な理解にかなり近づいてはいる。しかしながら、誰の文化を教えるのかという問いを明らかにする上で主要な役割を演じているある人工物には、実際に十分な注意が払われてこなかった。[その人工物とは]教科書のことである。もちろん、これまで過去何年かの間に教科書に関する研究は文字通り数千とあった。しかし、概して最近に至るまで、そのほとんどが文化のポリティックスに関心を払わないままでいたのである。あまりにも多くの研究者たちが、何年も前にC・ライト・ミルズ(C.Wright Mills)がつくり出したフレーズ「抽象的経験主義者(abstract empiricists)」の特徴をいまだに表しているかのようである。このような「社会的事象を数として漁ったり集めたりする人々」は、自らを取り巻く不平等の諸関係と無関係のままでいるのだ。
 これはゆゆしき問題である。というのも、右派連合が繰り返し教科書に焦点を合わせて紛れもなく示しているように、教科書というのは単に「事実」を「配達するシステム(delivery systems)」ではないからだ。教科書は同時に、政治的・経済的・文化的な活動、戦い、そして妥協の産物なのである。それは、現実の利害を担った現実の人々によって、考えられ、構成され、そして著されるものである。教科書は、市場、資源、そして権力に関する政治的・経済的制約の中で出版される。そして、教科書が何を意味し、どのように使われるのかをめぐり、関わり方の明らかに異なるコミュニティや教師と生徒までもが争い合うのである。
 私がこれまで一連の書物の中で論じてきたように、学校カリキュラムを中立的な知識だと思うのは世間知らずである。むしろ、正統的知識とみなされるものは、確認しうる階級、人種、ジェンダー、宗教グループの間での複雑な権力諸関係や闘争の結果なのである。このように、教育と権力は分かちがたい二連対句(couplet)である。社会的激変のときにこそ、この教育と権力の関係性が最も明白になってくる。そのような関係性は、カリキュラムの中に自らの歴史や知識を盛り込もうとする、女性たち、有色の人々、その他の人々による闘いの中で明らかにされてきたし、今も明らかにされ続けている。経済危機やイデオロギー・権威諸関係における危機に駆り立てられ、[教育と権力の]関係性は、ここ10年の間でさらにいっそう明らかになってきているし、学校教育に対して復活する保守派の攻撃のなかにも、それが明らかになってきている。権威主義的な大衆主義(authoritarian populism)が時代の風潮となり、ニュー・ライトが学校教育の目標、内容、そして過程にその力を発揮し、それは少なからず成功しているのである。