都合よく教科書が「中立・公正」などと言うな

沖縄戦集団自決記述に関する見解

 教科書検定は「教育内容が正確かつ中立・公正で、地域、学校のいかんにかかわらず全国的に一定の水準」を保つものであることは、第一次家永教科書訴訟最高裁判決(平成5年3月16日)で明らかにされたとおりである。ここで重要なのは、何より教科書の記述が教育内容として「正確」であることである。

 これまで何度も指摘してきたけど,このような見解は理想像としてはあるかもしれないが,現実にはあり得ない。これは歴史に限らずどの教科の教科書でも同じことだ。

教科書検定は学習指導要領や教科書検定基準など全て法令に基づいて行われている。

と彼ら自身が指摘しているように教科書は学習指導要領に基づいている。その学習指導要領自体政治的な妥協の産物であり,政治的に中立・公正ではないのだから教科書検定や教科書が中立・公正であるというのは間違っている。
 また,

 数を頼んだ政治運動によって、法令に基づいた検定結果が捻じ曲げられるのであれば、教育基本法の趣旨に大きく背馳するものと言わなければならない。昨年12月に改正された教育基本法によれば、「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」(第16条第1項前段)である。これは教育が、教育行政を含めて全て法令によって行われるべきものであるという法治国家として当然のことを規定したものであるが、政府が教科書会社による自主訂正を容認する形であれ、事実上、検定意見を撤回するのであれば、明らかにこの規定に反することになる。政府が率先して法令を無視する形で「政治決着」をするのであれば、教職員に法令遵守を求めた教育基本法第16条第1項前段はもはや死文と化し、教育界を無法状態とする第一歩となることは言うまでもない。政府には教育基本法を遵守されたい。

などという見解には,思わず吹き出してしまった。なぜなら,彼らは旧教育基本法の時代にはその「不当な支配」というものをきわめて限定して使用することを主張し,それが自分たちにとって使えるとなれば「不当な支配」を都合よく利用しているからだ。

検定意見の撤回はなすべきではなく、仮にこれを許せば、検定制度は明確に形骸化してしまう。

というが,教科書検定に背景となる明確な理論なりその根拠となるものがいつどこに存在しているのか。これまで教科書検定においてどういうことが行われてきたか検証してみればいい。そんなものが存在したことが無いことにすぐ気がつくはずだ。教科書検定制度などとうの昔に形骸化しているではないか。なぜ今更こうしたことを言うのだろうか。自分たちにとって都合が悪いからそう主張しているだけではないか。
 これも繰り返しになるが,歴史の問題は教科書ではなく歴史家なりが議論したり検証したりすることで「事実」を確定していけばいい。教科書の記述が「正確」であるという幻想を用いて「歴史の事実」を確定させようとすべきではない。
 教科書は政治的な駆け引きの道具であり,これまでもこれからもそれは変わらないだろう。そういうものを「中立・公正」などというのは間違っている。
 教科書をただ信じ込ませる。価値判断の余地も与えない。それを「教育」と称して行う。それほど愚かなことはない。教科書に子ども,価値観を縛り付けるな。