教科書検定の問題を考えるとき

 教科書検定の問題を右翼左翼の構図で語れば,読み物としては面白いのだと思うし,そういう構図で報道すると耳目を引くのだろうと思う。
 けれども,そういう構図で教科書検定の問題を語るのは問題を矮小化するだけであり,問題の解決に結びつくとは思わない。
例えば,今回の問題において「教育への政治的介入」になるとして批判する主張がある。しかし,よくよく見てみると,それは主張する側の都合によって今回は教育への政治的介入を批判しているだけである。
 教科書検定制度は,そのように都合よく「政治的介入」を利用できる制度である。そうであるならば,教科書検定制度そのものへの疑義も出てくるはずである。
 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070624/1182642429でも書いたように教科書検定制度の問題を考える際に,「教科書の記述は「公的知識」であり,それは一体誰が公的知識として決定したのか。教科書検定は誰の責任において行われるのか。教科書に記述される「事実」とは、誰がどのようにして認定したのか。また、どこがどのようにして認定したのか。」という問題を無視することはできない。
 また,教科書検定を行ったものが「政治的介入」になるからといって都合の悪いときだけは逃げ出すという歴代の文部科学大臣の対応も批判する必要がある。
 教科書検定の問題を考えるというのは,教育における「政治」の問題を考えるということだ。それは右翼・左翼という構図だけで捉えられるものではない。耳目を引くようなものだけで議論せずにもっと違う角度からも議論していくべきだ。