「ゆとり教育」はパッチワークのようなもの

誰のための「ゆとり教育」であったのか

 いわゆる「ゆとり教育」はパッチワークのようなものだ。その理由は,明確な理念があって統一されたものではないからだ。だからブログでは「」付きでこれまで書いてきた。
 「ゆとり教育」が日教組の提唱したことだと言われると,それは当たりではないし外れでもないとしか言いようがない。それは「ゆとり教育」のほんの一面に過ぎないからだ。
 いわゆる「ゆとり教育」をもし説明するなら,これまでの日本の教育政策の多様性,その政策が多様な方面から出てきたことを説明しなければならない。そうでなければ「ゆとり教育」の全貌は見えてこないし,全貌を語ることにはならない。
 日本の教育改革は,その時々の情勢や雰囲気に対応するために実施されてきた。今の「ゆとり教育からの脱却」というのもこれまでと同様に現在の状況や雰囲気に対応するために行われている。だから,そこに明確な理念の転換は行われずに「ゆとり教育」の逆のことをやっているに過ぎない。
 今もなおパッチワークの教育政策は継続されていて,今の雰囲気に合わない部分の柄や布を取り替えているだけであり,全体は変わることがない。それを「ゆとり教育」からの転換とかまるで大きな変革であるかのように言うことができるだろうか。
 「ゆとり教育」が特定のもののためにあったとか,特定のイデオロギーに基づくものであるとする主張が根強くある。しかし,それは何らかの意図を持って語られる際には仕方のないことであるとしても,それが一般化されてあたかも常識であるかのように語られたり,捉えられたりするのは間違っている。
 「ゆとり教育」はパッチワークのようなものだ。「ゆとり教育」の多様性に目を向けてみたらどうだろう。そこには可能性も問題も存在している。まずはそれを見極めていくことが必要なのではないだろうか。