普通の神経を持つなら
普通の神経を持つなら,
「道徳教育」とは何をどう教える教科なのか
といった考え方を否定するのではないか。
http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061028/1161995465で紹介した仲正昌樹氏の次のような指摘
人間の思想・信条は、アプリオリに与えられるものでも、公的な領域において瞬時に“選択”されるものでもなく、一定の年月をかけて、様々な社会的・文化的な文脈が織り込まれている私的領域の中で形成されてくるものである。
にあるように道徳も「一定の年月をかけて、様々な社会的・文化的な文脈が織り込まれている私的領域の中で形成されてくるもの」であると思う。
だから,学校で教科として教えるようなものではなく,様々な機会を捉えてその中で道徳は形成されるものだ。
http://koyasu.jugem.jp/?eid=814で子安潤氏が
今までも、教科と並ぶ教育の一領域として教育課程の中に存在してきた。
敢えて言えば、私の構想からすると間違っているのだが、道徳が教科のように扱われてきた。だから、道徳なのに、子どもたちは教科のように面従服背の「立て前」の知識として応えてきた。
それなのに、正式でなかったなんて。今までの服従は何だったんだ!
と指摘するように,道徳を教科化しようとしたり,教科として捉えたりするのは間違っている。
普通の神経を持つなら,林道義氏の主張こそおかしいと思うのではないか。