排除のための道具か成長を促す仕組みか

授業公開 根強い抵抗感

 この記事では,大学における授業研究が「大学教員にはもともと授業を公開すること」や「同僚に意見を聞く習慣」もなく,根付いていないと指摘している。
 でも注目すべきは,

 一方、授業研究会がリストラの道具として使われている大学もあるようだ。
 ある地方の私立大学の50代の男性教授によると、大幅に定員割れが続いたことを受け、経営陣は数年前、「大学に必要な教員名」を明らかにした。以来、授業研究会では、そこから外れた教員がターゲットにされ、年度初めに決めた授業計画と少しでもずれると学部長らから「授業担当能力がない」と厳しく注意されるようになったという。
 こうした内情を明かす男性教授も、所属ゼミの学生の就職がふるわなかったこともあって最近、解雇通告を受けた。

というところだ。
 FDや教員免許更新制度,学力テストは本来ならば「成長を促す仕組み」のはず。それがいずれも本来の趣旨とは異なり「排除の道具」として使われている。
 これは「教育の不能化」していることの証だ。これらは,まともに手を入れずに,これはきれいな花が咲かない,花を咲かせないから抜いてしまえと言っているのと同じことだ。
 この国では「育てる」ということを非常に軽視し始めている。「育てる」ところで労を惜しんでおきながら,いきなり選別するところから始まる。そうして選別することによって「育つ」「育てる」のだと勘違いしている。
 単に人材を使い捨てしているだけなのに,そういうことを推進している方が「人材が育たない」などと嘆いて見せる。こっけいな話だ。
 「教育」が「育てる仕組み」ではなく「排除する道具」として機能している。今のように「育てる」ということを軽視して人材が育つはずがない。