矛盾してねじれて

 今進められている教育改革は,矛盾しているし,ねじれている。元を辿れば,いわゆる「ゆとり教育路線」も矛盾しねじれていた。
 「ゆとり教育路線」は今では,日教組やその背景にあるイデオロギーが作り出したなんていう馬鹿げた「常識」がまかり通っているけど,http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070704/129082/広田照幸氏が

 80年代に盛り上がった、市民運動的な学校批判(制服批判とか校則批判など)と、ネオリベラル的な立場からの「画一教育批判」(たとえば臨時教育審議会(1984〜87)で出された個性重視論、など)とは、ある意味で、コインの裏表のような関係でした。

と指摘しているように,「ゆとり教育路線」も左か右かという立場に関係なく主張されたし,推進されてきた。そうしたなかで,矛盾したりねじれてきた。
 でも,そういった矛盾やねじれは,景気が良い時やなんとなくうまくいっているときには表面化しなかっただけで,本当はずいぶん前から存在していた。それが,今になって表面に出てきて「危ない」とか「やばい」って騒ぎ出している。
 何より問題なのは,矛盾やねじれが存在しているのにそれをどう解消するかというような議論が今になっても活発には行われないということ。矛盾やねじれがあったらそれを解消するために議論しなければいけない。そうしなければ互いの利害を調整するようなことができないから。でも,そういう議論には行かずに常に目先を逸らす方へと流されていく。
 例えば,教育で「格差」の問題が指摘されながら,「格差」を生む可能性のある政策の導入が主張される。そして,それが奇妙にも教育政策の中に同居している。
 同居していても同じ方向を向いていれば,それはそんなに奇妙なことではないかもしれない。例えば,「格差」解消のために「格差」を生むかもしれないような政策が形を変えたり何らかの形で導入されるとか。でも,今同居しているものは違う方向を向いている。矛盾しねじれている。
 矛盾やねじれがあってもそれを解消するような方向には向かっていない。矛盾やねじれが露呈しても,それを誰かのせいにしてしまい,いつの間にか曖昧になってしまうからだ。
 「ゆとり教育路線」も日教組のせいにしておしまい。そして,コインの表と裏に過ぎない「反ゆとり教育路線」が主張される。そして,また矛盾しねじれる。それの繰り返しだ。