学校は開かれなくてもいい。でも教育を閉ざすのは間違っている。

 山本哲士氏が,http://hospitality.jugem.jp/?eid=36

「学校」と「教育」と「学ぶ」こととはまったく異なるものであることを前提にしていかないと解けないことであり、
かつかかる現実がはっきりと出現しているのだが、
学校=教育=学習という構造は疑われていないため、論議が空転する。

子どもにとって学校は〈社会〉であり、教育は《国家》であるといえる。
学校は日々見える規則・規範でもって体験され、教育という見えないものが国家のように絶対的に働きかけかつ自分を守ってもいると感じられる。
しかし、一歩逸脱すると強制的に自分が押さえつけられ、処罰されることも感知されている。
この、社会と国家を身体化する日々が学校における学習であって、
それは自らによって「学ぶ」という自律行為からはほど遠いものである。
これが、教育の政治の本質的局面である。したがって、
小学、中学、高校と十二年にもわたって学校化されてくると、大学生になって、
学ぶ力はほとんど麻痺している。そのかわり、提示されたものはこなす力が備わっている。
従属しこなすパワーにはすさまじいものがある。
しかし、感性的な感覚は、産業化・制度化されたものの虚偽性、規範化が実際生活に意味ないことを感知している。

と指摘している。
 学校は閉じていてもいい。なぜなら,学校は最初から誰にでも開かれたものとして設計されていないし,存在していないから。
 でも,教育を閉ざすのは間違っている。学校に行かなければ教育はできないとか,学校に行っていないこと=教育を受けていないなどと考えるのは間違っている。
 「教育再生」という言葉は間違っている。彼らの考えていることは「教育再生」ではなく「学校再生」だ。それは,山本氏の言う「学校=教育=学習という構造」のなかで「学校」と「教育」とを同一視しているから出てくる発想だ。「教育再生」として行われているのは,「教育」をさらに「学校」のなかに押し込んでしまうこと。そうやって,「学校」に「教育」を押し込もうとするなら「学校」はさっさと始末したほうがいい。学校に教育を縛り付けるのは間違っている。
 学校は閉じていても構わない。でも,教育を学校に縛り付けて,教育も閉ざすというのは間違っている。