公的知識(オフィシャル・ノレッジ)の問題にこそ目を向けるべき

 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070623/1182558814で、教科書と教科書検定について少し書いた。

教科書検定:集団自決強制の記述復活難しい??安倍首相が認識

 安倍晋三首相は23日、太平洋戦争末期の沖縄戦で起きた住民の集団自決をめぐり、文部科学省の検定意見によって教科書から「日本軍に強制された人もある」などの記述が削除・修正された問題について「教科書検定の調査審議会が学術的な観点から検討している」と述べ、意見の撤回と記述の復活は難しいとの認識を示した。

【主張】沖縄戦集団自決 文科省は検定方針を貫け

 文科省の検定は、こうした最近の研究や証言に基づいて行われたもので、当然の措置といえる。沖縄県議会の意見書に限らず、さまざまな抗議運動が起きているが、検定はこうした政治的な動きに左右されるべきではない。

「沖縄の方のお気持ちに沿わなかったかも」と伊吹文科相

 伊吹文部科学相は15日の会見で、沖縄戦の集団自決に関する教科書検定意見に対し、沖縄県議会などで撤回を求める動きが出ていることについて「今回のことは沖縄の方のお気持ちには沿わなかったかもわからない」と述べた。そのうえで、検定意見が専門家らで構成される審議会で決定されると指摘。文科相の意向でその意見を変更したら、逆に介入になるとの考えを強調した。

 教科書の記述は「公的知識」だ。それは一体誰が公的知識として決定したのか。教科書検定は誰の責任において行われるのか。教科書に記述される「事実」とは、誰がどのようにして認定したのか。また、どこがどのようにして認定したのか。
 このエントリーの冒頭に引用した記事の発現、認識は「公的知識」という問題に対する詭弁に過ぎない。彼らは、一方で政治の教育に対する責任を語り、その責任を果たすための仕組みを作り出している。そのためには、政治が教育に介入したり、そうしやすい環境を作ることもいとわない。その一方で彼らは「不都合な部分」においては「教育の独立」を語り、そこに政治は介入すべきではないとし、責任を放棄し、責任追及を逃れようとする。
 学習指導要領、教科書といった「公的知識」はhttp://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070621/1182375641で書いたように「政治的妥協の産物」だ。そうであるならば、それらに対して責任を負うのは、それらを「公的知識」であると認定した彼らである。彼らが、「学術的云々」という言葉で自分たちの責任を逃れようとするのは、滑稽な姿だ。
 教科書検定制度は、公的知識を決定するための、「政治的プロセス」に過ぎないのだが、その制度は「教育の独立」を保障する制度であると誤解されている。誤解されているというより、むしろ、教科書検定という制度が教育の独立を保障する制度であるとすることで、自らの立場や利益を擁護するための装置として有効利用されていると言ったほうがいいかもしれない。(一部では、教科書検定制度の存在が、他国との比較において「優越感」を抱かせるような、おかしなことも起きている。)
 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070623/1182556847で引用した論文の中で城丸氏が、

 検定された教科書を「偏向」呼ばわりすれば、執筆者ではなく文部大臣が「偏向」の非難を受けねばならないはずであるが、政治的宣伝は根気よくつづけられてきた。つまり、書いてあることは「偏向」ではないが、執筆者が偏向しており「アカ」だというのである。

と言うように、この国では「公的知識」の問題を非常に矮小化して語られるようになった。教育における「政治の問題」を隠蔽し、学習指導要領や教科書と言った「公的知識」は「価値中立的な知識の集合」であると信じ込まされてきた。それは非常に都合よく利用されてきた。
 教育に対する政治の責任が強調され、教育基本法などの改正によって教育と政治の距離がだんだんと狭くなり、曖昧化している今だからこそ、「公的知識」をめぐる問題に目を向けるべきであり、その政治性に目を向けるべきだ。