教科書について

『城丸章夫著作集 第8巻 教育課程論・授業論』 第三章 教科・教材 第二節 教科書論 より引用。

 一九五五年に日本民主党が「うれうべき教科書の問題」というパンフレットを発行して以来、教科書に対する政治的圧力は日々に強化されてきている。いわゆる「偏向教育」という宣伝が巧みに推進され、この動きに呼応するかのように、文部官僚による教科書検定の強化と地方官僚による教科書採択の自由への圧迫が強化されていると言われている。検定された教科書を「偏向」呼ばわりすれば、執筆者ではなく文部大臣が「偏向」の非難を受けねばならないはずであるが、政治的宣伝は根気よくつづけられてきた。つまり、書いてあることは「偏向」ではないが、執筆者が偏向しており「アカ」だというのである。そしてこの傾向の仕上げとなったのが、教科書検定官による皇国史観の強制と言われる事件なのである。
 皇国史観そのものは、恐れるにたりない。そんなものは、いまの子どもたちは笑いとばしてしまうだろうからである。子どもどころか、今日の安保条約支持者たちも、皇国史観を信じてはいないだろう。皇国史観ではノーズロ的な安保条約を結ぶことは、良心に反するだろうからである。もっとも、皇国史観というものを歴史的に眺めてみると流動自在であること、たとえば明治時代の国粋主義を外山正一博士が批評して、「オッポチュニスト」「無主義論者」「コンニャク主義」(平野義太郎著『ブルジョア民主主義革命』三一五ページ参照)と言ったようなものであるとするなら、話は別である。皇国史観のおしつけがもし真実であるとするなら検定官某の如きは、まだ国粋の真義に未熟にして到達していなかっただけである。
 問題はもっと奥深いところに横たわっている。これらの人物が自己の見解をおしつけてもよいと判断させている、そういう政治の動向である。いうまでもなく、執筆内容ではなく、執筆者が問題であるというのは思想裁判であり、かくかくのことを書かねばならないとするのは思想強制である。これは戦前の日本がやったことであり国際的にはヒットラーや李承晩のやったことである。こういうことを、そそのかし、平気でやらせているような政治の体制が存在していることが、重大だと考えるのである。また、この体制の下で、一部の官僚が、そうした政治のための積極的なイデオローグおよび国民に対する監視者、情報屋といった役割を、進んで買って出ていることになるということに、注目せざるをえないのである。そういえば改定指導要領を説明するのではなく、理論的な欺瞞によって弁護し批判者を監視圧迫し、勤務評定や学校管理規則のための積極的なイデオロギーを推進しつつある者が、一部の官僚であることは、かくれもない事実である。いわゆる文部省の内務省化とは、これらの事実や傾向を指しているのである。
 しかも、官僚が生産しつつあるイデオロギーの特質は、民主主義をよそおいながら、これをねじ曲げている。たとえば、彼らは教育の機会均等の原則を、次のようにゆがめて平気で宣伝する。「世の中には不良・無能な教員が存在する。その教員から学ぶ子どもは、それだけ教育の機会均等を奪われている。勤務評定を実施したり、指導要領の基準性を強化したりすれば、不良・無能な教員をある程度向上させることができるから、教育の機会均等を保証する」。そんなことで不良・無能な教員を向上させることができれば、おめでたい話である。しかも、不良・無能とか基準性、勤務評定とかは官僚のみが独占的に判定するのであるから、教育の機会均等とは教育の官僚支配にほかならない。進学組・就職組に分けることが個性の尊重であり、特設「道徳」が生活指導に筋金を入れることである等々、官僚による発明は枚挙にいとまがない。彼らは、こういう形で近代教育の諸原則に挑戦し、これをねじまげ、ファシズムヘの道を切り開こうとしている。
 厳密に言えば、こんにちの官僚の理論は理論ではなくキベンである。政策が優先して存在し、それをとりつくろうだけが理論の任務となっているからである。教科書検定などは、そういう弱さが露骨に出ている部分である。検定には一貫した理論もなければ、きちんとした教科書観もあるわけではない。たとえば進歩的執筆者に対する干渉理由が、しばしば「児童の発達段階からみて不適切」ということであったというが、それならば、彼らはどんな発達理論を持っているのか。恐らくは、このことに対する答弁能力を持っていないであろう。そこに働いていたのは「政治的」配慮であって、教育的配慮ではなかったであろうからである。教科書検定官の干渉理由を細かく比較していったら、日本の児童・生徒の発達についての、検定官の驚くべき貢献が、心理学者などの知らないうちに、果たされていることを発見せざるをえないであろう。これが新しい「うれうべき教科書」の現実である。