教育再生会議第2次報告原案につっこんでみた

教育再生会議:報告原案要旨

1 学力向上

 授業時間数10%増のため春・夏休み活用や土曜日授業の導入。7時間目を設けるなど、弾力的な授業設定▽教育委員会に「学校問題解決支援チーム」設置▽全国学力調査の結果を徹底的に検証、学力不振校に予算、定数、人事面で特別の支援。

 授業時間数を増やしてまさか増えた時間分教える内容を増やす予定は無いですよね。そうなったら元の木阿弥。時間増したのに時間足りないってことになるから。「支援チーム」設置は必要なことではある。でも、そのための人材や予算はどうする。支援チームに問題丸投げで、学校と保護者のコミュニケーションが今以上に減る可能性もあるけど。それでも良いのかな。全国学力テストを徹底的に検証って、そこまでしないと学力不振校や問題を抱えた学校は見えないのかな。教員を加配するにしても予算が必要になるけど、その予算はどこから工面するのかな。競争的資金でも導入しますか。

2 心と体の調和

 全学校で新たに徳育を教科化。小中学校の学級担任が担当。点数評価はせず、多様な教科書と副教材を機能に応じて使用▽小学校で集団宿泊体験や自然体験・農林漁業体験活動を実施。中学校で職場体験活動▽父親の子育て参加への支援や妊婦検診を通じた「親の学び」、子育て講座の拡充▽中学、高校の家庭科などで子育ての楽しさを理解する機会を増加

 「多様な教科書と副教材を機能に応じて使用」って言うなら検定教科書なんて要らないでしょ。現状のほうが多様性はある。それを壊すことになっても教科書が必要なのかな。教科書作ってそれを使用させて道徳やりました、やらせましたって「目に見える」ようにしないと駄目ということかな。体験、経験って言うけど、体験や経験から学ばせるってのはすごく手間がかかるし、難しいことなんだけどその辺どう考えてるのかな。教育したら大人も立派になります。子どもも立派になります。それは教育万能主義だって言ったら言いすぎだろうか。子育てだけじゃないけど「楽しさ」ってことを強調するのは止めたほうがいい。楽しくなけりゃ云々ってことになりやすいから。

3 地域、世界に貢献する大学・大学院の再生

 9月入学の大幅促進▽教員任期制の拡大▽学部3年修了時から大学院進学する早期卒業制度の活用▽複数大学が大学院を共同設置できる仕組みを創設

 9月入学って言うけど、法律改正して大学だけ変わってもできる話じゃない。今のところ大学側を変える話しか出てないけど今後どうするのかな。大学教員の任期制にしても、大学院の改革にしても、これまで先送りにしてきた問題とか、部分だけを変えて、全体の整合性が崩れた状態なのをどうにかするのが先じゃないだろうか。

4 「教育新時代」にふさわしい財政基盤の在り方

 <初等中等教育教育困難校への支援▽一律支給の教職調整額を勤務実態に合わせて差を付ける▽市町村ごとの教育費の内訳を「公教育費マップ」にして公表

 <大学・大学院>競争的資金の拡充と効率的な配分▽国立大学法人運営費交付金を傾斜配分

 政治家が委員にいながら、予算増額などの話が具体化しないのはなぜ。政治家ってそういう時にこそ、力を発揮するんじゃないのかな。もしかして、予算の話だけ地方に任せるってことかな。地方分権だからって。国の予算は削ることはあっても増額しない。けれど「あなたのところは教育予算が少ないですね。」って地方に言うのが国の役割だということなのかな。教員の給与にしても大学の予算にしても、「差をつけること」が目的になって、「差がつかなきゃおかしい」って話になって、いろんな理由を持ち出して、差がついたら満足ってことになりそう。

 苅谷剛彦氏は、

欲ばり過ぎるニッポンの教育 (講談社現代新書)

欲ばり過ぎるニッポンの教育 (講談社現代新書)

のなかで、

 教育改革を英語で表現すると、education reformとなる。教育の仕組みや学校の制度をリフォーム(改築)すること、それが教育改革の意味である。私たちは、教育制度の増改築を、二十年以上にわたって繰り返し行ってきた。そして今また、教育基本法の改正(建物のもととなる設計図の変更)という大改築が行われようとし、それにあわせて、教育の「再生」を図る改革論議(内閣直属の「教育再生会議」での議論)が始まろうとしている。
 だが、本当に私たちは、そこまで日本の教育制度をリフォームする必要に迫られていたのだろうか。仮に、何らかの変更が必要だとしても、それは設計図を変えなければならないほどの必要性なのだろうか。さらにいえば、テレビ番組のように、見事なリフォームを設計し、実行できるだけの「匠」の手によるリフォームが行われてきたのか、今行われようとしているのか。そして、このようなことに確信が持てないにもかかわらず、それでもなお、私たちがリフォームの申し出を受け入れてしまうのはなぜなのだろうか。匠に任せることができずに、下手をすれば、家は住みやすくなるどころか、見た目ばかりは美しくても、かえって、土台のしっかりしない、暗くて、風通しの悪いリフォームになってしまう、そういう可能性もあるのに。
 教育のリフォーム(改革)やリニューアル(再生)を大仰に語る前に、日本の教育の現状と、その可能性や限界を冷静に見つめ直すこと。設計図を書き直す前に、もう一度、リフォームの必要性やその方向性について考え直すこと。そして、どうしてもリフォーム好きになってしまいそうな自分たちの体質を自覚し、とらえ直すこと。そういう落ち着きを取り戻すことが、今、強く求められている。

と指摘する。さらに、

 教育予算というお金の話を抜きに、教育改革が語られるのも、お金をかけずに家のリフォームを頼むのと同じである。家を建て替えてみたら、お金が足らずに家具を買いそろえることができなくなった。それくらい目につき、わかりやすければいいのだが、それが見えなくなってしまうほど、抽象的で、耳触りのよい言葉が教育論のキーワードとして多用される。予算や人材や時問の制約という現実に向き合わなくても、夢心地で聞いていられる話ばかり。これでは、ポジティブリストが長くなるのもしかたがない。各論に至れば異論の出てくる事柄でも、議論を詰めずにリフォームの話が進んでいく。困るのは、それが実際に実行された段階になってからである。冷静な診断の言葉ではなく、実現可能性を括弧に入れた崇高な理想や徳目の言葉。それらが実行に移されたときには、期待を裏切る一因となり、だからこそ、さらなる改革を求める魔術のサイクルを作り出す。こういう魔法にかかった状態から抜け出すためには、「殺し文句」となる魔法の言葉をなるべく使わずに、教育を語るしかない。それが、教育改革を語るまえに、論じるべきことのひとつである。とはいえ、警戒しなければならないのは、教育以外の言葉で教育を語り始めたとき、今度は、経済の言葉が一挙に入ってきたことである。市場、選択、競争、消費者、受益者、アカウンタビリティ等々。いまや、教育を語る際に、経済の言葉が大手を振っている。教育の言葉の呪術性が薄れてきた分、それを埋めるかのように、経済の言葉が魔法の呪文として使われ出した。市場での選択にゆだねれば、競争を通じて教育は改善する(あるいは教育問題は解決する)、といった言い回しは、呪文の言い換えにすぎない。魔法の呪文の勢力圏が変わっただけである。経済の殺し文句を使わずに、教育を語ることが今では必要になっているのだ。教育論を形作る言葉の一つひとつに、私たちがどれだけ冷静に向き合えるか。言葉の言い換えを続けたり、総論と各論の行き来を繰り返しながら、魔法にかからないようにするしかないだろう。教育を語ることに、どうしてもつきまとってしまう魔法の磁場を意識しておくことが必要なのである。とりわけ、教育改革を論じる場の魔力は強い。それだけに、どんな言葉でリフォームが語られ、その方針が決められたのかを、注意深く追っていく必要がある。教育改革の呪縛から逃れるための方法である。教育には、時間と人とお金がかかる。このあたりまえのことを忘れてしまうと、教育の議論は思わぬ方向に向かってしまう。そして、教育の議論を通じて決定される、教育改革も教育政策も、迷走を始める。

ということも指摘している。http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070519/1179520866のような動きもある。教育再生会議のように教育改革の魔法に頼ることなく、冷静に議論し、着実に積み上げていく教育改革こそ今必要なものだ。