なぜ教科書が必要なのか

道徳に検定教科書…再生会議

 政府の教育再生会議は25日、現在、小中学校で正式な教科でない「道徳の時間」を、「徳育」として「特別な教科」に位置づけ、国の検定教科書の使用を求める提言を打ち出すことで大筋一致した。

 現状では、学校現場で道徳教育の徹底が十分でないとして、検定教科書の使用による充実が必要だと判断した。6月1日に安倍首相に提出する予定の第2次報告に盛り込む方向だ。

実践の多様性が失われる

 教育再生会議に「徳育の教科化について(論点メモ)」という資料が提出された。この資料の中に道徳の時間に使用する教材に関する調査結果がある。それをぜひ見ていただきたい。というのは、現場がいかに多様な取り組みをしているかをよく示していると考えるからだ。
 教科書が作成されれば、これまでのような多様な取り組みが制限されることになる。教科書は主たる教材であり、事実上それを使用することが義務付けられる。
 だから、これまでのようにどのような教材を選択するかという教師の裁量は大きく制限される。もし「多様性」なるものがあるとしたらそれはいかにして教えるかという「技術面」の多様性でしかない。

道徳の「教科化」による貧困化

 もう一つ実践面に与える影響は、これまで以上に道徳が「教科化」するということだ。http://koyasu.jugem.jp/?eid=814で子安潤氏が

 道徳が教科のように扱われてきた。だから、道徳なのに、子どもたちは教科のように面従服背の「立て前」の知識として応えてきた。

と指摘している。
 道徳は、小学校の学習指導要領では、

 道徳教育の目標は,第1章総則の第1の2に示すところにより,学校の教育活動全体を通じて,道徳的な心情,判断力,実践意欲と態度などの道徳性を養うこととする。
 道徳の時間においては,以上の道徳教育の目標に基づき,各教科,特別活動及び総合的な学習の時間における道徳教育と密接な関連を図りながら,計画的,発展的な指導によってこれを補充,深化,統合し,道徳的価値の自覚を深め,道徳的実践力を育成するものとする。

という目標が示されている。
 道徳は、「各教科,特別活動及び総合的な学習の時間における道徳教育と密接な関連を図り」ながら「学校の教育活動全体を通じて」道徳性を養うものとされている。
 このようなことは「教科」では無いからこそできることであり、教科書が作成され道徳の時間にそれを使って学ぶという「教科化」が進めば、他教科などとの密接な関連を図った教育は困難になる。それは、道徳教育の貧困化を招くことにしかならない。

道徳で「育てる」の意味

 何度もこのブログで引用してきたが、仲正昌樹氏は、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061028/1161995465から再引用しておきたい。

 人間の思想・信条は、アプリオリに与えられるものでも、公的な領域において瞬時に“選択”されるものでもなく、一定の年月をかけて、様々な社会的・文化的な文脈が織り込まれている私的領域の中で形成されてくるものである。

 道徳で育成するものは「アプリオリに与えられ」たり、「公的な領域で瞬時に選択される」様なものだろうか。
 道徳で育成されるものは、仲正氏が言うように「一定の年月をかけて、様々な社会的・文化的な文脈が織り込まれている私的領域の中で形成されてくるもの」ではないか。
 教科書で学ぶということは、「様々な社会的・文化的な文脈」のなかで学ぶということと同義ではない。教科書では、「育てる」のではなく、「教える」ということになる。
 「道徳」は育てるものではなく、教えるものになる。そこには、子どもを「育てる」という視点が欠けている。だから、子安氏が言うように「道徳なのに、子どもたちは教科のように面従服背の「立て前」の知識として応え」るようになる。
 道徳を教科書で教えるようになれば、道徳の内容や実践が貧困化する。終には、道徳の存在意義さえも見失わせることになるかもしれない。それでも教科書が必要だと思われるだろうか。