教師の多忙化に目を向ける

 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070519/1179520866でいただいたコメントを読みながら、現場の問題もきちんと考えなければいけないと改めて思った。そこで、今回は「教師の多忙化」について少し考えてみたい。

教師の多忙化とその特質

 藤田英典等「教職の専門性と教師文化に関する研究(その1)」で多忙化について次のようなことが指摘されている。

 9ヵ月間のフィールドワークから、多忙化に関すると思われる事例を取り出し、それを内書に沿って分類した。以下はその一部である。
1)教育活動において観察された多忙化
 1.教職の性格に内在するもの
  ・指導の形態に由来する出来事
  ・予測不可能性に由来する出来事等
 2.システムに由来するもの
  ・人手不足に由来する出来事
  ・行事と授業のアンバランスに由来する出来事等
 3.職業生活と私生活の関連に由来するもの
2)多忙化を示す表現とその特徴
  ・バタバタしている
  ・たてこんでいる
  ・気をもんでいる等
3)語られた「多忙化」
  ・ねぎらいの言葉
  ・やりがい等

 そして、

 多忙化は第一に、教育活動の特質に由来している。教師の日常の教育活動は、教科指導、生徒指導、雑務等が、平面的に並んでいるものではない。教師は、種類やレベルの違う活動を同時に複数担っており、また状況に応じて瞬時にそれらの優先順位を決定し、日常の教育活動を組み立てている。また、集団と個の双方に絶えず気を配りながら、状況に応じて臨機応変に指導を行っている。こうした活動は、「バタバタしている」という表現に示されるように、教師の教育活動内部に基本的な「せわしなさ」として包含されている。
 また一方、こうした教師の日常の教育活動は潜在的に脆弱さをはらんでいる。というのも、教師の日常活動は、それがうまく機能することを前提としたところで組み立てられているので、生徒が予測外の行動をしたり、教師が一人病気になったりするというような出来事が起こった場合、それに十分に対応することは難しいからである。しかしながら、予測外の出来事が起こらないことはないので、それは必然的に「多忙化」をひきおこすことになる。
 さらに、第三点目として、上述したような特徴を持つ教師という仕事に対し、教師が意味付けを欠いた場合に、それはより強い「多忙感」となって表現されることが事例からも明らかである。
 以上のことから、教師の多忙化は、単に量的な指標で計られるものとは異なり、多様な仕事内容という教職の特徴を基本にし、それを意識と現実の仕事の上でどれだけ統合的にとらえることができるか、という問題と深く関連していると結論づけることができる。
 また、第三点目に関連して、近年、「企画化が進み、類型化された仕事の増大が教師のモラールを低下させ、同時に多忙感をつのらせている」という議論がある。教師の日常の教育活動の変化が、どのように多忙化と結び付いているかを明らかにすることは今後の重要な課題であろう。

と述べている。
 ここから見えてくるのは、教師の場合、仕事の量の多さに起因する多忙感だけではなく、仕事に対する意味づけの有無も多忙感と関連していることが分かる。

仕事への意味づけと教師の多忙感

 藤田英典等「教職の専門性と教師文化に関する研究(その2) : PACT質問紙調査を中心にして」では、

 教師にはある一種独特の職業的構え(教師文化)があるということが明らかである。それは、教師は使命感を持ち、(子どもに)無定量のコミットをすることが教師という職業の核心であるという意識に支えられていた。
 以上のことから、先行研究の指摘とも一致する、「多忙」は教師文化の表現形式であるという結論を導く事ができる。すなわち、教師としての特有の構えを有している者は、実際に子どものあらゆる側面に関わろうとし、同時にそれが実際の「多忙」をもたらすのである。そしてまた「構え」が進行されているという限りにおいて、このことは同時に「充実感」「満足感」にもつながっている。

 これは、教師が仕事にどのような意味づけを行うかによって、「多忙」であっても、それが「多忙感」として現れる場合だけではなく、「充実感」や「満足感」として現れる場合があることを示している。
 近年、教師が「充実感」や「満足感」より「多忙感」を訴えるようになっているのは、仕事に対する意味づけができていないからだということが考えられる。

これからどうするか

 教師の仕事量が以前と比べてどのくらい増加しているかというようなことについては、データを持っていないのでここでは取り上げなかったが、ここで考えなければならないことは、教師の多忙感が強まっているのは、仕事の量の多少だけでなく、その仕事にどのような意味づけができるかという部分が関わっているというところだ。
 教師が「子どもと関わる時間がほしい」というようなことを、最近よく訴えるようになっている。それは、仕事への意味づけができていない状況があることを意味している。
 教師の多忙化を仕事の量だけで論じると、仕事への意味づけの問題が置き去りになってしまう。教師の多忙化を解消するには、量の削減だけでなく、仕事の意味づけという問題も視野に入れておく必要がある。
 そして、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070519/1179587318で引用した苅谷氏の

 根拠の薄い再生会議での議論と、それでもその主張を歓迎し、あと押ししている、教師バッシングという名の教育版ポピュリズムの嵐。この両者が、現実を見えなくさせている。

という指摘も忘れてはいけない。
 教師の多忙化という現実は忘れられ、あまり目を向けられない問題だ。教師の多忙化という問題だけでなく、非正規雇用の問題など様々な問題が実際には山積している。しかし、今進められている教育改革では、山積みにされた問題のほとんどが解決されないで残ることになる。皮肉なことに、教育改革によってさらに問題が増えるという状況もある。また、外部からは理解できない問題もある。山積みにされた問題を解決するためには、内部と外部の双方からのアプローチが必要だ。