政治の季節の到来

【解答乱麻】政策研究大学院大教授・岡本薫 目標掲げない議論の愚

 教育再生会議の第2次提言が今月出される。政策にかかわるマネジメントは(1)現状の把握(2)問題の原因の特定(3)具体的な目標の設定(4)有効な手段の選択・実施(5)結果の評価−といったプロセスで行うべきだが、再生会議の第1次報告は、政策マネジメントの教科書に反面教師として載せたいほど典型的な悪例を示してくれていた。

という岡本氏の指摘や、踊る新聞屋―。「『安全神話の崩壊』という神話」が崩壊する足音が聞こえる?かなで紹介されている自民党議員の主張。どちらももっともな主張。しかし、そういう主張が教育政策に反映されることはない。
 http://rin.typepad.jp/edu/2007/04/post_92fe.htmlで、

 全国学力・学習状況調査については,小学校6年生と中学校3年生の全員が受ける「全数調査(悉皆調査)」である必然性がないとよく言われる。

 私たちも統計学の授業でそのように習うし,実際,これほどの大予算を掛けて得られる成果はないことは明らかである。

 それでも全数調査をするのは,それが純粋な研究調査ではなく,行政調査だからである。もうちょっといえば,ここにも政治の季節が到来しているというだけである。理屈ではないということ。

と指摘されているように、最近の教育改革は、教育再生会議の提言にしても、全国学力テストにしても、純粋な政策マネジメントではないし、純粋な研究調査でもない。どちらも、「政治の季節が到来しているというだけ」だ。
 政治の季節の到来は、教育を政権の重要課題にした。しかし、それは純粋な政策論議ではなく、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061112/1163321142で紹介した、広田氏や苅谷氏の言うような「不毛な論議」へと変えた。いや、不毛な論議をより一層不毛な論議へと変えたというべきかもしれない。
 もう一つ、ここで指摘しないといけないのは、そういう政治の季節の到来に際して、広い意味での教育学は不毛な論議に対して「無力」だということ。
 http://www.iwanami.co.jp/shiso/0995/kotoba.htmlで、広田氏が指摘しているので繰り返さないが、教育学は遠い場所で不毛な論議を指をくわえながら眺めている存在になっている。
 本来なら、教育学は不毛な論議からきちんとした政策論議へと引き戻す役割を果たすべきだ。広田氏や苅谷氏、教育基本法の改正論議のときに積極的な発言をしてきた人たちなど、様々な人たちがここにそういう役割を自認し、行動していた。しかし、それは必ずしも多くの人たちの共感を得ることはなかった。
 教育学は足場を見失っている。広田氏が言うように、「教育学は、急いで理論の足場を組み替えていく必要がある」。その足場をどう組み替えていくか。それは、政治の季節の到来を強く意識しながら行う必要がある。
 今進められている教育改革では、「教育をどげんかせんといかん」という声だけが方々から聞こえてくる。その声に押されて冷静な議論を欠いたまま、様々な改革案が登場してくる。日本の教育改革が何度も繰り返してきた失敗を、また繰り返そうとしている。冷静さを欠き、ムードにずるずると引きずられて行われる教育改革と今こそ決別すべきだ。