私たちは何を持ち、何を持たないか

 本日、全国学力テストが実施されている。今後どのように展開していくのかできる限りの情報を集めて、考えていきたい。
 今回考えたいのは、全国学力テストはなぜ特別視されるのかということ。http://rin.typepad.jp/edu/2007/04/post_92fe.htmlで林向達氏は、

 全国学力・学習状況調査については,小学校6年生と中学校3年生の全員が受ける「全数調査(悉皆調査)」である必然性がないとよく言われる。
 私たちも統計学の授業でそのように習うし,実際,これほどの大予算を掛けて得られる成果はないことは明らかである。
 それでも全数調査をするのは,それが純粋な研究調査ではなく,行政調査だからである。もうちょっといえば,ここにも政治の季節が到来しているというだけである。理屈ではないということ。

と指摘している。全国学力テストに政治的思惑を寄せ、それで全国学力テストが特別視されるという面がある。
 もう一つ、特別視される理由がある。これまでさんざん行われてきた自治体ごとの学力テストや国際的な調査という同趣旨のものが存在したにもかかわらず、全国学力テストでやっと子どもの学力の実態が解明されるかのではないかというような大きな期待が寄せられていること。また、全国学力テストに参加しないことは、子どもの学力について知る手段を失うのではないかという過度の不安。そういうものが背景にあって全国学力テストが特別視されている。
 ここで、このエントリーの表題「私たちは何を持ち、何を持たないか」ということを考えなければいけない。
 先ほど書いたように、全国学力テストと同趣旨の学力テストは、各自治体ごとや国際的な規模でこれまで繰り返し行われてきた。そうする中で、改善も加えられ、データも蓄積されてきている。
 私たちは、子どもの学力の状況を把握する機会と手段は既にいくつか持っている。全国学力テストの実施は、その機会と手段が新たに増えることを意味する。しかし、全国学力テストが存在しない、それに参加しないことで、子どもの学力の状況を把握する機会や手段が全く失われてしまうということにはならない。
 私たちが持たないのは、次のようなものだ。
 実施される学力テストについて、目的と手段、そこから何が得られるのかなどということを知らされ、自分で選択する権利を持たないこと。
 また、学力テストがどのような基準で作問されるのか、評価の基準は何か。そういう情報を得られないこと。
 そして、評価の基準や枠組みなどを見ながら、今後どのような対策を講じたら良いのかということを議論したり、判断したりすることができないこと。などがある。
 全国学力テストで子どもの学力の状況が把握できるとされ、情報も公開するというように言われている。しかし、そこで得られる情報は、実際には限られた情報でしかない。
 もし、本当に子どもの学力の状況を把握したいと思えば、誰かが分析した結果や得点だけではなく、自分で分析することができるような情報(評価の枠組みや子どもが実際にどのように解答したのかなど)が必要となる。しかし、全国学力テストではそこまで情報を得ることはできない。
 子どもの学力の問題、もっと広げて教育の問題は自分たちと関係の深い問題だ。しかし、「当事者」として必要な情報を得ることも、プロセスに関わることもできない。
 私たちは、小出しにされる情報だけでなんとなく納得させられ、どこかで決まったことや提供されるものをただ受け入れたり、受け取ったりする立場でしかない。最近の教育改革のメニューのどこにもそういう立場から私たちを解放するようなものは含まれていない。
 学力テストの話に戻す。これまでさんざん学力テストが行われてきた。しかし、常に「分からない」「不安だ」という状況から抜け出せない。そういう中で全国学力テストが実施される。それに期待し、特別視する気持ちは分かる。
 全国学力テストによって、本当に自分たちがこれまで持たなかったものを本当に持つことができるのか。分からないとか不安な状態から抜け出せるのか。冷静に見てみる必要があるし、問うてみる必要がある。
 管理や統制に素直に従ったり、教育サービスを受け取ることに専念する消費者という受動的な立場から、「当事者」として能動的に教育に関わる立場へと変えていくこと。
 立場を転換する一つの契機として全国学力テストを考えるなら、まず、自分が何を持ち何を持たないのかを考えることが必要だ。そして、「当事者」として必要な情報が得られるようにすることや、プロセスに関与できるようにすることを求めていくべきだ。
 求められる側は、そういう求めに対してきちんと応答していく責務があることも忘れてはいけない。