雰囲気に流されないで冷静に議論すること

国学力テスト:札幌市教委が小6も無記名方式採用

 おそらくこの問題は、記名式は駄目で番号式ならば良いという議論に流れそうだ。マスコミもそこにしか関心がない様で、全国学力テストにおいて個人を識別できる情報が必要かどうかということはほとんど議論されることはないのだろう。
 おそらく、全国学力テストが抱えている問題(例えば、http://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/kariya/05_1.html苅谷剛彦氏が指摘している問題など)は全く無視されて、番号式にすること、いくつかの調査項目が削られたり変更されるだけで終わるのだろう。
 それでは、日本の教育改革がこれまで続けてきた愚かな行為をまた繰り返すだけだ。結局、問題の本質には一切触れることなく、雰囲気に流されて、それに引きずられながら一体何がしたいのか分からないような改革が進んでいくことになる。
 全国学力テストだけでなく、今進められている教育改革が本当に必要なものであるかどうか、きちんと見極めることから始めるべきだ。不安に駆られて、とにかく変えなければならない、やってみなければ何も始まらないと言って、雰囲気に流されるだけの改革を行ってはいけない。
 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061112/1163321142で引用した苅谷剛彦氏と広田照幸氏の指摘をもう一度引用しておく。
 苅谷氏は

 教育をめぐる議論には、共通する特有のスタイルがある。あるべき理想の教育を想定し、そこから現状を批判する。批判そのものには誰も異論はない。前提となるあるべき教育の理想には、誰も正面からは反対できない崇高な‐抽象的な‐価値が含まれている。一方、そうした教育の理想を掲げていれば、現実的な問題をどう解決するか。その過程でいかなる副作用が生じるかについての構造的把握を欠いたままでも、私たちは教育について語ることができる。ここに教育をめぐる議論のもう一つの特徴がある。

と指摘し、広田氏は、

 教育は、単純素朴な思い入れや思い込みで、誰もがいくらでも語れるようなトピックである。誰でも何らかの「理想の教育」を思い描けば、現実の教育をいくらでも批判できる。しかも、その「理想の教育」像の単純さのゆえに生じるかもしれない困った帰結については、考慮が払われない。―教育をめぐる議論が混乱といかがわしさに満ちている原因の一つは、ここにある。教育という営みは、未来に向けたプロジェクトであるため、現在の時点での選択肢のうち、何が一体望ましいかについては、不確実さが必然的につきまとう。だから、もっとも美しい「べき論」やもっともわかりやすいスローガンが、無責任に、はばをきかせることになる。

 全国学力テストをめぐる議論においても、両者の指摘するような問題を抱えた言説があふれ出している。あふれ出てくるそれらの言説に押し流されないようにすべきだ。