結局は何も見てないし、知ろうともしていないということ

怪しい朝御飯。

 sava95さんのエントリー経由で読んだ。
 以前、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070318/1174229878苅谷剛彦氏の次のような指摘を引用したことがある。

 だが、いったい、何のための学力調査なのか。調査結果は、どのように分析され、どのような知見が導き出されているのか。それらは、教育政策や教育現場の改善にどのように生かされているのか。生かす仕組みについてどれだけ考慮されているのか。こうした点から振り返ってみても、疑問だらけの調査が少なくない。平均正答率を示すだけの調査結果の公表。それほど根拠もなくつくられたかにみえる「設定通過率」を基準に「おおむね良好」との公式見解を出す行政。子どもの意識や生活についての質問紙調査と同時に実施された学力調査も、単純なクロス表の分析や平均値の比較だけにもとづいて、例えば「朝食をとらない子の正答率が低い」といった見解が示されたりする。専門的な視点からみれば、不十分な分析しか行われていない。それが「学力調査の時代」の現状である。「ゆとり」志向が幅をきかせ、ペーパーテストの学力が忌避され、学力論議が無風となってしまった時代への反動からか、2002年以後の「学力調査の時代」はうってかわって、調査をすればよしとする風潮が蔓延しているようにみえる。それが、やったらやっただけの調査の量産を許している。

 苅谷氏は、「単純なクロス表の分析や平均値の比較だけにもとづいて、例えば「朝食をとらない子の正答率が低い」といった見解が示されたりする。」と指摘する。
 なぜ、朝食と学力との関係だけがこれほど強調されるのか。他の生活習慣と学力との関係を見ればすぐに分かるが、朝食以外の生活習慣と学力との相関関係などいくらでも指摘できる。朝食の問題だけを大きく取り上げたいと考えた人たちがいて、それをマスコミが報じ、大きな問題になったに過ぎない。
 朝食を摂るか摂らないかという問題は、学力との関係でここまで大きく扱われるような問題ではない。本来なら、子どもの面倒を見てやりたくてもできない家庭があって、そういう子どもたちが学校へ通わないとか、低学力であるとかいうような問題に関心が向けられるべき。そして、そういうものは学力テストによって把握するような問題ではない。
 学力テストというものが、本来の意味で実施されないために、馬鹿げた「調査結果」なるものを用いて、あれこれと議論している。そして、本来見るべきもの、知るべきことを見ることもないし、知ることも無い。そして、何より見ようともしないし、知ろうともしていない。だから、朝食を摂らせましょうという運動が展開され、学力は向上したかということだけに関心が集まり、解決すべき問題は一向に解決しない。そういう間違ったサイクルにどんどんはまっていく。
 そして、朝食を摂るとらないという問題が、家庭教育の問題、または、過程のあり方の問題として語られるが、それは、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070102/1167702009で引用した、鈴木智道氏の言葉を借りれば、「現実の家族のあり方は依然として個別性や多様性を持ったものとして点在し続けて」いるにも拘らず、「個別性あるいは多様性が単一の表象によって包み込」もうとするものだ。ある理想像を個々の家庭、家族に押し付けている。
 それは、個々の家庭や家族の抱える問題を解決しながら理想像へと近づけていくのではなく、問題はそのままにして理想像へと偽装されていくということだ。
 朝食を摂る、摂らないという問題は、学力問題として語られようが、家族や家庭の問題として語られようが、本質的な問題ではない。瑣末な問題に拘泥することで、解決すべき問題を店晒しにしておく格好の言い訳を与え、時間稼ぎをさせている。そして、不安や恐怖、相互不信だけが表面化している。「不安社会」が出来上がっている。