英語教えて国滅ぶ!?

【勿忘草】英語教育、なんだか亡国的にも…

 夕方の電車。人込みの向こうに、かわいらしい英語のおしゃべりが聞こえてきた。
 私など及びもつかぬ、きれいな発音だ。はてこのあたりにインターナショナルスクールでもあったかな、などとのんきに聞いていたが、ひょいと見てびっくり。ずっと英語でしゃべっていたのは、日本の学校のかばんをしょった日本の2人の男の子だった。
 悲しく切ない気分での、残りの車中となった。子供たちには、なんの罪もない。教わった英語に磨きをかけるためふだんの会話も英語ですることにしている、といったところだろうか。
 学校で習っているのか、塾に通っているのかは知らない。しかしこれは一体、どこの国の光景だ?

 なぜ、日本で、日本人が英語を話すと「これは一体、どこの国の光景だ?」などと思われなければならないのだろうか。

 小泉政権の愚策のなかでも最大のもののひとつは、構造改革特区などと称して公立小学校の教育に英語を導入させたことにあると断ずる。
 教育が国の未来を作るものであるならば、ほとんどこれは発想において亡国的であるというほかない。

 私学や私塾であったり、家庭の方針で早い段階から英語を学ばせたい、というのならまだわかる。
 けれども、公教育の初等の段階から他国語を学ばせるとき、どんな公共社会を目指しているというのか。
 文学であれ歴史であれ、教えるべき日本語の財産は無尽蔵にある。英語のフレーズを覚えさせるくらいなら、意味なんかわからなくても万葉集の歌や芭蕉の句を暗唱させたほうがよっぽどよいと信じる。
 どうか公立学校で英語教育にたずさわる大人のみなさんには、英語を教える時間で奪われるぶんだけ、日本のすばらしさを子供たちに教えていただきたいと思う。

 今進められている英語教育の導入は、薄っぺらな論理と薄っぺらな内容なので、その意味では子どもたちにとっていいことではないと思う。しかし、英語教育、しかも、公教育でそれが行われることがなぜ「亡国的」なのか分からない。
 また、「公教育の初等の段階から他国語を学ばせるとき、どんな公共社会を目指しているというのか。」というが、逆に万葉集芭蕉の句を意味も分からないうちから暗誦させることで、どんな公共社会を目指すというのか。
 英語の教育だろうが日本語の教育だろうが、公共社会の形成に何の支障があろうか。日本語だけを特別視する必要がどこにあるだろう。

 思えば政権の最後の時期、訪米した小泉前首相はメンフィスを訪ね、プレスリーのものまねをしてはしゃいだものだった。会見でも英語で「ラブミーテンダー」などとやらかした。
 よい子のみんな。いくら英語ができるからといって、一国の首相がこんなまねをするのは恥ずかしいとは思いませんか。日本の古典や歴史を知れば、きっとそう思うはずだ。

 小泉首相のパフォーマンスに対しては、日本の古典や歴史を知らずとも恥ずかしいと思う人はいくらでもいるだろう。英語教育よりまずは日本語の教育と言い放った某大臣の言動も同じように恥ずかしいものがあるが、それは一体何の影響か。
 安易な英語教育導入論にも反対だが、この記事にあるような日本語教育に対する考え方にも反対だ。