田中耕太郎の教育観

 昭和20年12月06日の貴族院黒田清氏の質疑に対する田中耕太郎氏の答弁を以下、引用しておきたい。

○政府委員(田中耕太郎君) 只今の御質問は今後の文教政策に關しまして文部省がどう云ふ根本方針を執つて居るかと云ふ御質問と承つて宜いかと思ふのでございます、で勿論我が文教政策は、一口に申しますると、民主主義の實現、平和國家、道義國家、文化國家の建設と云ふことに向つて居なければならないのでございます、併し更に具體的に申しますと、個々の點に付きましてどう云ふ方針でやつて居るかと云ふ御尋かと存じます、それに付きましては、先づ軍國主義又過激國家主義的要素を拂拭する、是は或は教職員即ち教育界の構成の人員の方面に於きまして、或は如何なる内容の教育が今迄行はれて居つたかと云ふ、其の内容的の意味に於きまして、其の二つの意味から軍國主義竝に過激國家主義的の要素を拭ひ去つてしまふと云ふ消極的の方面が一つでございます、併しながら此の消極的方面だけでは足りませぬので、積極的にどう云ふ風な教育の内容をして行かなければならないかと云ふことに付きましては、私共、斯う云ふ時代の移り變りと云ふことに關係のない本當の教育の本義に照らしまして、どうなければならないと云ふ點からして考へて見るべきではないかと存ずるのであります、處で此の點に付きましても、今迄の我が國の教育界が一體どう云ふ方面に於て缺陷を持つて居るかと云ふことを考へて見ますると、要するに眞理と云ふものが十分それ自身として尊重せられなかつたのではないか、或は道徳的原理にしろ、或は科學的眞理にしろ、又宗教にしろ、文化にしろ、國家とか民族の發展の手段であるかのやうに考へられて居りまして、自己目的として追究されなかつたと云ふ所に遺憾があつたのではないか、從ひまして例へば歴史の研究なり、或は歴史の教育に於きましても、さう云ふ精神を以て爲され、何か手近な政策的の意圖を以て歴史が研究せられ、又歴史の教育が爲されて居たと云ふやうな嫌ひがあつたのではないかと思ふのであります、斯う云ふ點に付きましても根本的の反省をする必要があるのではないかと存じますので、若し御尋がございましたならば、此の國史の教育に付きましては、又後程申上げる機會があるかと思ひます、それから一番大切なことは從來國民道徳と云ふものが形式主義化されて居りまして、唯形の上のことばかりを要求して參りまして、詰り其處にも亦軍隊式が入つて參りまして、號令で以て道徳が遂行されると云ふ印象を與へるやうな風になつて參つて居るのであります、從つて形骸化した國民道徳に代るに、もつと内容的な、良心其のものから發して居る所の我々の行動でなければ、道徳的に價値がないと云ふことを、國民教育に於て特に強調する必要があるのではないかと思ふのでございます、詰り或は眞理を、或は眞實を、それ自身として探究致します、尊重致しますと云ふことに依りまして、詰り所謂國家が總て眞理や眞實を支配する、眞理や眞實は國家の奴隸になるのだ、或は何か具體的政策を實行して行く上の手段になるのだと云ふうやうな風に考へまする所の從來の風潮を、根本的に是正しなければならないと云ふ、此の點が非常に大きな今後の教育の根本的の方針にならなければならないかと存ずるのであります、それからもう一つは、總て國民の教養の水準が、他の諸國に比較致しまして、必ずしも高くはない、世間では餘程高いやうに考へて居りましても、實際を見ますると、必ずしもさうでない、識見なり、或は智識と云ふやうなものが甚だ狹隘になつて居る、眼界を廣く世界に放ち、有らゆる世界各國の有益なるものは、日本で以て偏見なしに受容れると云ふやうな態度がなかつた、其の態度に於て缺けて居りましたことも、矢張り今日の國民の教養の水準の低下の原因となつて居るのではないかと思ひます、今後に於きましては、世界的の人物を養成する、日本人となる前に、一個の人間でなければならない、人格者でなければならない、同時に其の日本人は矢張り世界人類の一員であると云ふやうな氣持を、教育者なり、又被教育者なりが有つやうになつて、特にさう云ふ意味に於きまして教育者の頭を切換へる必要があるのではないかと思ふのでございまして、今後の教育者の頭の切換に付きましては、或は教育研修所とか云ふやうな從來の施設を利用致しまして、又教育家を集めまして、講演會なり、或は講習會なり、座談會と云ふやうな催しを度々開きまして、或は「ラヂオ」だとか、映畫だとか、其の他色色な方法に依りまして、此の教養の水準の向上、又眼界を廣くすると云ふやうなことを實現したいと存じて居る次第でございます、尚教育に於きまして、特に民主主義をどう云ふ風に實現して行くかと云ふやうなことに付きましては、色々な考も成立ち得るかと存じますが、私が二、三考へ付きましたことを申上げますと、教育と云ふものを獨立せしめる必要があるのではないか、即ち教育の權威の維持、言ひ換へますると、教育と云ふものが從來如何にも政治の手段、或は政治の一角を成して居つたと云ふやうな、さう云ふ考へ方をなくしまして、教育自身がそれ自體價値があるものと考へるやうな思想に立つことが必要ではないかと存ずるのであります、で此の教育の尊重、是は我が國に於て度々口頭禪として唱へられて參つた譯であります、併しながら實現はなかなかむつかしかつたのでございます、今後之を是非實現したいものと存じます、でさう云ふ意味から、現在の我が教育系統の面を再反省致しまして、例へば中央に於ても、或は地方に於ても、政治なり行政と教育の方面との關係をどう云ふ風に改善して行くかと云ふことを、詰り教育の權威を維持すると云ふ意味に於きまして、再檢討を加へる必要があるのではないかと存ずるのでございます、それからもう一つは教育關係、詰り教育者と被教育者との關係でございます、其の關係に於きまして、「デモクラシー」の理想をどう云ふ風に實現して行かなければならないものであるかと云ふ點でございます、頻々として此の頃起つて居ります、是は甚だ遺憾なことでございますが、所謂學校紛擾なんかに付ても、文部省と致しまして適當なる大方針を示さなければならないのでございます、それに付きまして、抽象的ではございますが、詰り此の教育者と被教育者との間に於きまして、所謂軍國主義的な權力的な關係と云ふものは、是は本當の關係ではないと云ふ風に我々は存じて居るのでございます、詰り被教育者は教育者に盲目的に服從して居る、奴隸的に隸屬をすると云ふのではないので、矢張り教育される學生、生徒、學童等も一個の人格者でありまして、さう云ふ風に取扱はれなければならない、是が矢張り眞の「デモクラシー」の理想ではないかと存ずるのでございます、さう云ふ風に教育されるものを一個の人格者として見ると云ふのが從來缺けて居つたのではないか、從來不十分であつたのではないかと存ずるのでございます、詰りさう云ふ點から申しまして、人格の完成、個性の健全なる發達と云ふことも考へられなければならないのでございます、それから教育者は然らばどう云ふ風に考へらるべきかと申しますと、此の教育者も、被教育者の單なる功利的の意圖、即ち被教育者が知識を獲得する手段、教育者の方では學問を切賣りすると云ふやうな、さう云ふやうな態度であつてはならないので、被教育者が教育者を利用すると云ふ風なものであつてはなりませぬ、で矢張り此の人格的な關係がそこにあり、被教育者は教育者を權威者として敬ふ、是は軍隊式の權威ではございませぬ、道徳的或は知識的の意味に於きまして、本當に權威を持つてる者として、被教育者が教育者を尊敬すると云ふやうな關係が成立つて居なければならないと思ふのでありまして、で學校と云ふ社會、即ち學園に付きましては、私共は其の學園が一つの家族的の團體であると云ふ風に考へたいのでございます、其の家族的の團體に於きましては、愛とか敬とか云ふことが基調になつて居り、教育者は專制君主的の權力で以て被教育者を壓迫すると云ふのではありませぬし、又幾ら自由主義の世の中であるから、民主主義の世の中であるからと言つても、勝手な行動を被教育者が執る、自由が放恣に流れると云ふやうなことがあつてはなりませぬ、教育者は被教育者の人格を尊重すると同時に、被教育者も教育者を自分の父兄として敬ふと云ふやうな態度がなければならないと思ふのでございます、要するに道徳とか秩序とか云ふものが、學園と云ふ家族的な團體の中に於きまして支配しなければならない、其の範圍に於て民主主義なり自由主義と云ふものが許されるのであると云つて宜いのではないかと存ずる次第であります、でさう云ふ氣持から、さう云ふ根本方針、根本觀念から致しまして、現在色々教育制度を反省して見ますと、或は教育の現實を反省致して見ますると、或は教育が畫一主義に餘り流れてしまつて居る、或は合理的に物を考へる習慣が足らなくなつて居つた、或は女子が特に男子よりも教育上に於て劣つた地位に置かれて居つたと云ふやうなことも反省されなければならない譯でございますし、又教育に關する只今申上げましたやうな目的を遂行して行く上に於て、師範學校制度と云ふものが十分其の目的に適つて居るかどうかと云ふことも檢討を要することではないかと存じます、又宗教教育と云ふものは、從來宗教と教育が分離せられて居りまして、其の分離は極端に達して居りましたのであります、私立學校で以て宗教的の要素を採り入れて居りまするやうな學校も、從來時局の影響の結果、其の宗教教育に付て自由を與へられず、壓迫せられて居つたやうな譯でありまして、さう云ふ方面の宗教に於て宗教教育を尊重し、自由なる活動を認めると云ふやうなことが必要になつて參ります、其の外、教科書の根本的改訂なり、國史教育の方針を反省する、又公民教育を學校教育及社會教育兩方面に於きまして普及させ、健全なる國家的及政治的の思想を涵養すると云ふやうなことが必要になつて參ります、又科學教育の方面に於きましても、まだまだ其の振興と云ふやうなことに付きましては、合理的に又有效に其の目的を達する爲に改善すべき點が多々あるかと存ずるのであります、尚體育等も、軍國主義的の意味ではありませぬ、本當の健全なる精神が宿るべき健全なる肉體を鍛錬すると云ふやうな意味に於きまして、從來の「イデオロギー」と違つた意味の體育が重んぜられなければならないやうな譯でございます、根本の方針に付きましてもまだ色々ございますかと思ひますし、又個々の施策に付ては尚更澤山考へられるのではないかと存じますが、只今の御質問に對しまして思ひ付きましたことはそれだけでございます