教育改革が叫ばれるとき

 今、教育改革が重要な課題だといわれている。同じことがアメリカやイギリス、様々な国で言われてきた。そこにはいくつかの共通点がある。経済が停滞している時期であること。自国の影響力が弱まっていると考えられている時期であることなどだ。
 今の日本の教育改革も同じだ。ゆとり教育からの転換が当然の正論であるというような受け止め方がされている。しかし、それがもし景気の良いときであったなら、日本が影響力を持っていると信じられている時期であったなら、そういう主張はほとんど相手にされなかっただろう。
 今の教育改革の本性を見極めるのに必要なことは、教育改革の動機が何かを考えていくことだ。アメリカの教育改革(『BERD』1号 藤田英典氏の論文中にある表がわかりやすい)で言うと、1950年代の教育改革は、いわゆる「スプートニクショック」が契機になった。イギリスの場合は、1980年代の教育改革は経済の停滞が契機となった。
 ここで考えなければいけないのは、アメリカやイギリスにおいても改革が主張される契機となった問題を解決するために教育がどれほど貢献したかということだ。結論は、短期的にも長期的にも教育は問題解決に大きく貢献したことなないということだ。
 なぜ、そのように結論付けられるのか。その理由は、教育改革の成果は少なくとも数年のスパンを経て出てくるのに対して、教育改革の動機となった問題の多くが、現在の問題あるいは短期的な問題であり、そこにズレが生じるから。もう一つは、長期的にはほとんどの教育改革がその後更なる改革、それも以前の改革とは異なる方向で改革が行われており、教育改革は失敗と位置づけられるのであり、問題解決につながったとは考えられないからだ。
 では、現在の安倍内閣の教育改革はどうなのか。安倍内閣の教育改革の動機は、学力低下やいじめの問題など教育が荒廃しているということにある。その教育を立て直すということが目標となっている。それは、様々な調査等を重ね、現状を把握し、過去と比較し未来予測を立て、その未来のために必要な施策を立案し、実施していくという長期的な視点を持つものではない。安倍内閣の教育改革は短期的な視点による改革であるということができる。
 安倍首相自身述べているように、安倍内閣の教育改革はイギリスのサッチャーの教育改革をモデルとしている。サッチャーの教育改革の特徴は、イデオロギーが前面に出た改革であるということだ。それは、現状をきちんと把握した上での改革でもなく、将来の予測に基づくものでもなかった。そのために、サッチャーの改革は頓挫しかけて、妥協をする場面が何度かあった。(安倍首相の著書では、妥協しなかったというようなことが書いてあるが、間違い。)安倍内閣の教育改革もイデオロギーが前面に出ている。その辺はサッチャーの改革とよく似ている。
 つまり、安倍内閣の教育改革は、イデオロギーが前面に出たものであり、短期的な視点からの改革であると言うことができる。
 これまでの日本の教育改革は、短期的な視点、ムードに引っ張られた改革であり、長期的な視点が欠けていた。安倍内閣の教育改革にも同じことが言える。
 現在、教育改革が強く叫ばれているが、その動機はイデオロギーや短期的な視点にある。今、必要なことはこれまで、長期的な視点をもって行われてこなかった教育改革を、長期的な視点から行えるような環境整備を行うことだ。そして、短期と長期の問題とをきちんと区別し、それぞれに必要な施策を立案することが必要だ。そのために必要なものは、教育再生会議のような拙速な議論ではなく、様々な根拠に基づき、冷静に意見を出し合い、検討し合える場所を作るということだ。中教審や再生会議など限られたところにそういう場を作るのではない。様々なところにそういう場を作っていくことが必要だ。
 教育改革が叫ばれるときというのは、冷静な議論ができていないときだ。現在の状況はまさにそういうときだ。