教育改革を熱望する人たち そして「教育愛者」の競い合い

クローズアップ2007:教育再生会議・1次報告案(その1) 議論、生煮え3カ月

クローズアップ2007:教育再生会議・1次報告案(その2止) 結論ありきの迷走

 教育再生会議が1次報告案をまとめたようだ。後日、報告が出てからきちんと批判していきたい。
 今回の1次報告案を象徴するものは、桜井よしこ氏の次のような言葉によく表れている。

ゆとり教育」の見直しや教師の資質向上に向けた免許更新制など、改革の目玉がはっきり打ち出されている。

 教育再生会議の委員や官邸は、とにかく「はっきりとした」ものにこだわっている。これは、改革を実のあるものにするためではなく、地方の政治家が自分の任期中に箱物をつくり、これが成果であるとはっきりわかるものを熱望するのと同じように、改革をやっているとはっきりわかるものが彼らには必要だっただけ。ゆとり教育の見直しというのはその典型例だ。
 はっきりとしたものを求めるのは、再生会議の委員や官邸だけではない。教育が荒廃しているようだ。方向性が見えない。そういう不安な心理状態の人たち。自分たちは、教育政策の失敗の犠牲者だという意識をもつ人たち。そういう人たちも同じようにはっきりしたものを求めている。そういう人たちの意識が形となったのが今回の1次報告案だ。
 岡崎勝氏は、「現場は教育改革を欲望しない」のなかで次のように述べている。

 いままで「教育改革」と称する「学校制度や教育内容に関わる政策改編」が、歴史的にも何度かあった。そのたびに、私は学校現場の教員として、その「騒ぎ」に関わりつつ、いつか沈静化し、日常に溶解するのを眺めながら、忙しさの中で毎日をやり過ごしてきた。圧倒的多数の義務教育学校教員は、私のような態度をとる者が多かったように思う。
 私たち教員は、その騒ぎの中でも、毎日、淡々と子どもたちの相手をし、「おつきあい」してきた。ある意味で、軟弱でもあり、また、したたかでもあった。子どもたちも、どんなに「低学力」と非難されようと、圧倒的多数が、学級崩壊だろうがなんだろうが、とりあえず、「教室空間」を維持し、クラスメイトだけでなく、「メル友」「援交仲間」「塾仲間」などと、「友達」をつくり、休み時間になれば元気におしゃべりしてきている。
 今次の教育改革はある種の「公共事業的」なものなのだが、いままでの「改革」同様、「悲惨なエネルギー浪費」を私たちに強いることになるだろう。そして、判然としないにもかかわらず、生き続けている「教育の思想」の頑迷さと、それを空洞化し無化する、したたかな「現場の原理」を確認することになるだろう。

そして、岡崎氏は次のように述べている。

 こうしたときに「どうして教員は断固闘わないのだ!」と言う声がどこからか聞こえる。闘わないまでも、「教員がのびのびしていないのに、教えられている子どもがのびのびするはずがない」というのは、原理的には正しい。しかし、それよりも、教員という存在は、「子どものためになること」の積み重ねにしか、仕事の意義を見いだせない(社会的に認知されない)でいる現状がある。しかも、それが「本当に子どものためなのか?」という反問すらも微妙にずらしていくのである。そもそも「子どものため」などという教育の言説は、個人的幻想と錯誤の産物でしかない。しかし、「そういってしまったら、おしまいです」といいながら、それでも、「善きこと」を過剰に積み重ねることで自己確認するのである。
 結果的には社会が求める「教育愛」の圧力による可視的な「教育愛」の再生産としての過剰な量の仕事が生まれる。しかも、現在は「市民の目」「世間の評価」という実態の見えない幽霊がおおきく学校を取り囲んでいる。人事考課という教職員の査定、問題教師排除のシステムも作られていく。ますます、労働条件の改善要求は自主規制し、教育愛をアピールしていくことが教員の至上命令となり、疲弊していくだろう。
 「子どもたちにとって本当によい教育改革なのでしょうか?」という視点からだけでは、根本的な批判にはなり得ない。「市民運動」対「行政当局」という対立図式での批判さえも吸収していく柔軟な面を教育改革言説は持ちうる。
 思い起こせば、愛知の管理主義教育が「終演」したのは、そこで過剰で過激な教育愛の再生産に疲れた教員たちが引っ込んだからである。決して「民主教育が勝利」したのではない。それが、証拠には「民主的教育」が、現在、学力批判派と共に、あらたな「『真の学力』低下は許さない」と補習授業を担おうとしている事実もある。「教育愛」は不死である。
 「批判というのは、物事が現状において良くない、と言うことのうちにあるのではない。そうではなく、受け入れられているさまざまなプラティックは、いかなる種類の明証性や慣習性に基づいているのか、そして、獲得され改めて反省されることのないような、いかなる思考様式に基づいているのか、ということを見極めることこそが批判というものです」とフーコーが言うように、循環し生き続ける教育愛の権力の存在を無視した、教育改革批判はおのずと限界があると言って良いだろう。

 岡崎氏の「教育愛」という言葉を借りて言うなら、教育再生会議は「教育愛」の権化として、自分たちこそ真の「教育愛者」であると高らかに宣言し、教育愛あふれる提言を行おうとしているのだ。これからは、「教育愛」の競い合いが行われる。だから、教育改革への熱望は後を絶たない。いかにそれが皮相なものか。それを知るのは、誰もが教育愛に疲れたときなのかもしれない。