家庭をめぐる言説

isbn:4326652772:detail

鈴木智道 「表象としての家庭」より以下引用。

 もともと「楽しい家庭」を家族が協力して作るという表現が可能なように、「家庭」は家族というものの存在形態からアプリオリに定義されたり、措定されるものなのではなく、作ったり壊したり、時にあったりなかったりするものとしてある。その意味では「家庭」は自己によって感じられたり、他者によって指示されて初めてその存在を確認することができるものとして存在しているのであり、またそれは家族をめぐる〈知〉を構成する表象でもある。

 そもそも「家庭」が〈知〉としての存在を獲得し、家族に対して、その外側からイメージや表象が与えられたり、問題が発見されたり、あるいはそうした表象や問題に基づき、現実の家族に対する社会的な介入がなされるといったような状態は、決して普遍的な現象なのではなく、近代社会の成立に伴って生じた事態のひとつでもあった(立岩1992)。

 「良妻賢母」思想が儒教的、封建的な思想であったという理解は、たとえば小山静子の研究によって一面的にすぎないことが明らかにされている。小山によれば、「良妻賢母」思想は近代社会における性別役割分業を支える規範、あるいはイデオロギーとして捉えられるべきであり、まさに曰本の近代(化)に適合的に機能した思想であった(小山1991:236)。

 当初「新語」としての「家庭」は現実にはどこにも存在しない家族のあり方として、その達成を社会全体に促す表象としてあり、その意味では啓蒙的要素を多分に含み持つとともに、現実との接点という点では浮遊せざるをえなかった。しかし、この時期における新たな展開は、その資格を得た者のみが「家庭」の達成へ向けての可能性を保持するものとされたということに求められる。社会の理想というよりも、資格保持者のみに許された特権として「家庭」が位置づけられていくのである。その資格保持者とは、主として都市部の新中間層家族のことである。「家庭」はこの階層の「中流」たる核心として位置づけられ、リアリティを獲得しはじめるのである。「家庭」を「現実の家族」のなかに創造するために、現にそこにある家族のあり方を修正し、同時に新たな家族の存在形態、あるいは行動様式を達成することに自らの関心を集中させていく―都市新中間層家族は、「家庭」と現実の家族生活とを接合させ、そこに循環的な構造を初めて作り出した家族であったといえよう。言い換えれば、新中間層家族の拡大による「家庭」のリアリティ基盤の獲得という事態は、〈知〉としての「家庭」に向けてその構成員全体が動機づけられる家族空間の形成を意味するものであった。

 「家庭」はそれが置かれている物理的、地理的状況をも内包しながら示唆されるある特定の家族生活に対するイメージとして現れてくるようになる。ただ、ここでの問題はこのような「家庭」をどれだけの家族が実践していたのかということではない。そうではなく、「家庭」が新中間層にとって高い価値を持つものとして位置づけられ、それが現実の家族生活の実践における「理想」として機能していたということ、そのこと自体が重要なのである。

 大正期を挟む時期において「家庭」は都市新中間層というリアリティ基盤を獲得したが、それはあくまで限定的なものにすぎなかった。しかし、この限定性は一九七〇年を挟む時期までには家族のあり方を示唆する全面的な地位を獲得していくことになった。すなわち、家族はいかなる階層であろうとも区別なく全面的に「家庭」との偏差において言及されるようになり、その結果、「家庭」をめぐる認識構造の常態化を達成することになったということである。いわば「家庭」は個々の家族生活における唯一共通の準拠点としての位置づけを獲得することに至ったのである。
 ただし、ここで注意すべきは、現実の家族のあり方は依然として個別性や多様性を持ったものとして点在し続けていたということである。「家庭」のリアリティが都市新中間層という限定的な基盤しか持たなかったときもそうであったのと同様、現実の家族のあり方は個別的であり、また多様であった。しかし、個々人の家族を営む動機づけの次元や家族への言及を行う際の認識構造の次元において、「家庭」はそうした個別性や多様性に覆いかぶさるようにして、人々を捉えていくことになった。つまりは、戦後に生じた事態とは、「家庭」のリアリティ基盤の全社会的展開という大きな変化に並行しながら、「家庭」が達成されざる家族のあり方としての地位を保持し続ける過程でもあったということなのである。言い換えれば、すべての家族が同等に過渡的な「非l家庭」として自らを自己規定し、同時にそのように把握され言及される認識の構図が、この時期、全面的に展開されていったといえるのである。

 しかし、一九七〇年代までに作り出された以上のような「家庭」をめぐる構造は、一見安定した期間を経過した後、むしろ現実の家族のあり方の変動によって、挑戦を受けることになった。今日まで続く「家族の危機」と概括されうる事態の到来であり、冒頭で触れた「家庭」の再定義という事態は、この文脈のなかで理解される。

 たしかに「家族の危機」という事態は、結果として、「家庭」を理想としてきた認識それ自体の批判と反省をもたらす可能性を含み持つものではある。しかし、「家庭」の再定義によってそれに対処しようとする志向性は、「家庭」を依然として達成されざる家族のあり方としての地位を意義づけし続ける営みに転化せざるをえず、それゆえ、それに関する認識自体を「問い」として導く契機を内包してはいないのである。

 ここで再度強調しておくべきことは、その現象の仕方は時代的に異なるにせよ現実の家族は個別的であり多様であり続けているということである。そして、「家庭」のリアリティ基盤の拡大に伴い、それが全社会的に根を張っていく過程で生じたのは、そうした個別性あるいは多様性が単一の表象によって包み込まれる状況が常態化したということであった。「家庭」に関する〈知〉の常態化によって生じたことは、あらゆる家族が「家庭」によって参照されうるとの前提を獲得したこと、まさにここに求められるといえよう。もっとも、「家庭」のリアリティ基盤がまだ限定的であったときには、その基盤の内部に実際に存在する個別性や多様性は、その外側にあった家族の個別性や多様性によって極小化させることができた。「家庭」を参照する資格を持っているとの共有基盤とその外側の存在が、内部の個別性や多様性を顕在化させない役割を果たしえたからである。
 ところが、リアリティ基盤の全社会的な拡大という事態は、外側の消失を招来し、同時に現実の個別性や多様性がすべてその内側に取り込まれるようになったことを意味してもいた。したがって、個別性や多様性のいかんによっては、その顕在化が避けられない事態も生まれてこよう。「家族の危機」が声高に叫ばれているひとつのゆえんは、そうした事態の反映として捉えられるものなのである。そして、その結果生じた「家庭」の再定義という対処法は、すべての家族を包み込む「家庭」という単一の表象を維持しながら、そこに現実の個別性や多様性を取り込むための最善のやり方として採用されているといえるのである。今日の家族をめぐる諸問題は「家庭」のリアリティ基盤の拡大とそれに伴って生じた「家庭」に関する〈知〉の常態化という文脈のなかで把握できるものなのである。

 こうした「教育」と「家庭」との原初的関係は、まず国家(文部省)の手によって接合が図られる。一八八二(明治一五)年の『文部省示諭』に初めて示された「家庭教育」の項がそれにあたる。いわく「学齢児童ヲ学校ニ入レス又巡回授業ニ依ラスシテ別ニ普通教育ヲ授クルモノヲ総称シテ家庭教育ト云フ」(佐藤1987:130)。家族が学校にかわって「普通教育」を行うこと、これが「家庭教育」だというのである。このきわめて限定された「家庭教育」の規定は、まさしく「教育」が近代学校装置およびその営みによって意味づけられていく事態に適う位置としてあったといえよう。「教育」の厳密な意味から漏れた現実に付与された残余カテゴリーのひとつとして「教育」は「家庭」と接合したのであり、それは家族が学校と同じような営みを子どもに施す限りにおいて「教育」と呼びうるものだったのである。したがって、ここでいう「家庭」は理想とされるべき家族のあり方を意味しているのではなく、いわば家族一般を呼称するものとしてあるにすぎなかった。

 もともと「教育」は近代学校との関係においてのみその意味が指示されるものとしてあり、「家庭」はその埒外に位置づけられていた。しかし、その後、「家庭」を理想とする家族が、子ども=生徒を結節点として学校と関係を取り結ぶなかで、「家庭教育」という認識が立ち上げられ、学校と家族の「教育」をめぐる関係構造が形作られていくことになる。そして、この過程は、当初「家庭」とは別の作法であった“子どもを学校の「生徒」にする”という営みをも「家庭教育」のなかに取り込みながら、家族の行う子どもの社会化としての「教育」を全称的かつ自律的に示唆することで、それぞれの家族が理想とするべき「家庭」を意味づけていくものであった。「家庭教育」の誕生という事態は、「家庭」を構成するひとつの重要な関係性として位置づけられた親子関係に「家庭教育」という呼称を与え、同時に「家庭」のなかにそれを繰り入れる現象だったということである。

 ここに見出された家族と学校の関係構造、あるいは「学校教育」と「家庭教育」の関係認識は、それについて言及されるとき、子ども=生徒を結節点としたその連絡・連携・協力といったかたちをとる、我々にとっておなじみの図式を提供することになるものである。しかし、ここでより注目すべきは、「家庭教育」が「家庭」のなかに包摂されることにより、その言及に一定の形式性が持ち込まれるようになったということである。
 たとえば、「家族の教育力の低下」にかかわる論を見てみよう。こうした言及の仕方が端的に示しているのは、問われていることが「教育」のあり方であって、「家庭」そのものの内実が問われているわけではないということである。いわゆる「家庭教育」の再編というスローガンは、「家庭」に達成されざる家族のあり方としての地位を保証したうえで、そこに包摂された「教育」のみを操作の対象としていくという形式性のなかで、「家庭」への意味の補充を行っているにすぎないのである。結局、この地点においても家族への言及は、「家庭」を単一の表象として再生産させることに寄与していくかたちでしか現象していない、といえるだろう。
 すべての家族は「家庭」をつくり上げることによってその十全な達成を迎える―家族に対するあらゆる言及は、この命題へと収斂していく形でフォーマツト化されているのである。

 そもそも「家庭」というかたちで示唆される家族像を過不足なく言語化できたことは、これまであったのだろうか。もちろん、「幸福」や「絆」といったキーワードはある。しかし、どのような状態を達成すれば「幸福」であると感じられるのか、またどうすれば「絆」があると感じられるのかと問えば、それは個別的な問題として発問者に投げ返されることになってしまう。「家庭」は行為規範なのではなく、たとえば「暖かさ」といった語感を発生させるきわめて感覚的な表象としてある。それゆえ「家庭」は、その核心については意味による充足がなされることのない空洞状態であり続けてきたともいえよう。しかし、それを理想とし続けることへのある種の信仰にも似た確信によって、その中心の空洞は不問に付されてきたのである。