教育の市場化
アップル マイケル W.「市場と測定 : 教育における監査文化・商品化・階級戦略」『教育社会学研究』No.78(20060531)のなかで次のように指摘する。
まだ完全には市場関係に組み込まれていない生活や制度を,すべて変形して市場の構成要素として取り込むのはたやすいことではない。もしそうしようと思えば,少なくとも次の4つの条件が満たされる必要がある。
1.対象となる物やサービスは売買を前提とした商品へと装いを改めなければならない。
2.これまで国から物やサービスを受け取ってきた人々が,同じ物を商品として買いたいと思わなければならない。
3.労働条件や公的機関で働く労働者の態度は共同体モデルから利益追求型へと変化しなければならない。すなわち,労働の意味が共同体の中にあり,「公衆」のためにサービスを提供する労働から,資本家や投資家の利益追求のために働き,市場の掟に服従した労働への変化である。
4.これまで市場の外に置かれていた領域にビジネスが入り込んでくる際のリスクは,できるだけ国が引き受けるのでなければならない。
教育も例外ではない。アップルは次のように指摘する。
イデオロギーに後押しされたこれらの「改革」は効率性の向上だけを目的としているのではない。民営化が実施されれば,公的に運営される場合とはまったく異なるプロセスが進行するのである。たとえば,教育のようなものを市場に出すためには,まず教育が商品,つまり「製品」に姿を変えなければならない。いったん市場に出されると,教育という名の製品はそれまでとは異なる目的のために使われるようになる。これまで学校教育は批判的,民主的な市民を育てることを究極的な目標としてきたが,これが変化する(ただし,これまでの状況をエデンの園であったかのように美化してはならない。学校教育に対しては,労働者階級や多くの女性,有色人種など社会において「不完全な市民」の位置に置かれた人々が,その目的実現のためにきちんと機能を果たすよう求めてきたのだが,実際はそうはなっていない)。これまでの目標に代わって,しだいに教育のプロセス全体を通して株主の利益を生み出すことが目標になりつつある。
教育の市場化に伴う変化については、多くの場合あまり自覚的ではない。アップルは次のように指摘する。
この種の圧力の下では労働も標準化され,かつ競争的なものになり,こうした労働が新しく市場化された労働者の生活を支配するようになる。それだけではない。多くの労働は消費者の側に移行することになる。いまや労働者がしなければならない仕事のほとんどは,情報を得,広告や苦情を選り分け,乱雑に山積みされたデータや「製品」の意味を理解することである。また,そうした労働過程においては,これまで必要とされた物や価値があまり意味のないものとみなされ,ついには捨て去られる傾向にある。その対象となるのは,もとはといえば共同体のことを考え,闘争と妥協を経て生まれ,国のサービスとして具体化したものであった。
そして、アップルは、公務員は「かれらに批判的な外部の統制の下におかれ、かつ労働強化へと向かわせられる」と述べている。教員が多忙化していると言われるが、それは教育の市場化による変化が要因となっている。そして、
もし,公的機関で働く人たちが反撃に出て,自分たちへの敬意ある扱いを求め,また学校や大学,地域の現実世界で日々直面している複雑な問題に対しては安直な方法ではどうにもならないこと,もっと大きな視野での認識が必要であることを主張したりすれば,かれらは反抗的で,利己主義で,冷酷であるとレッテルを張られることになる。
と指摘している。
アップルは、また「多くの労働は消費者の側に移行することになる。」と述べている。この指摘は重要なことだ。アップルは、
病院や学校でのサービスが商品化されれば、それまで公務員によって行われてきた仕事の多くは、サービス利用者自身の手に委ねられることになる。
とし、その変化に対応するためには、
時間や資金、さらにはやる気といった資源が必要なのであるが、そうした資源はいずれも平等に配分されているわけではないのである。
と述べている。教育の市場化は、消費者の選択の拡大やサービスの向上といったレトリックを用いて語られる。しかし、市場化による恩恵を受けるのは、常に「時間や資金、さらにはやる気といった資源」を持つことのできるものだけだ。アップルが指摘するように、資源が平等に配分されないなかで、市場化だけが進行するなら、教育というサービスは不公平に提供されるものとなる。それは、格差を拡大、再生産することに他ならない。
以前、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20060824/1156376251で教育の公共性に関して、
教育の公共性の根元は、公的な機関が運営するシステムだからではない。教育は私益のために存在するのではなく、公益のために存在するものだからだ。
それは、教育によってある個人が様々なものを獲得する。そこで獲得したものは様々な形で社会へと還元される。還元された利益は、特定の個人やその周辺部にいる人たちだけが享受するものではなく、多くの人が享受するものだ。だからこそ、教育は公共性を帯び、そこに公的な資金などが投入される。
教育に格差が生じることは、個人の利益を侵害するから問題なのではなく、教育の公益が侵害されるから問題なのだと考えるべき。
ということを指摘したが、アップルはデビッド・マカンド(David Marquand)の次のような言葉を引用している。
市民的権利や市民サービスといった公的領域が,売買を原則とする市場領域に侵害されるようなことがあってはならない。医療や防犯,教育といった公的領域のサービスが商品として,あるいは商品もどきのものとして扱われるべきではないのだ。そもそも売り手とか買い手,生産者とか消費者といったことばは公的領域にはそぐわないし,そうしたことばが意味している関係性が公的領域にあるわけではない。医者や看護士は医療を「売っている」わけではないし,生徒も教師の「客」であるわけではない。警官だって公共の秩序を「生産している」とは言わない。そのような市民と公的サービスとの関係を市場モデルに押し込めようとすることは,公的サービスの倫理をなし崩しにすることであり,サービスを担っている機関の価値を引き下げることであり,市民権の概念から実質を奪い取ることである。
教育の市場化は、教育の公共性を低下させるものであり、マカンドの言うように、「市民権の概念から実質を奪い取る」ことになる。それは楽観視できるようなことではない。