こんな寝言が正論とは

教育再生は現場の総入れ替えで

 改正教育基本法が成立し、なにはともあれ、めでたい。
 審議の途中、いじめ自殺がいくつも報道され、その対応に時間をとられた。ほぼ20年前、臨時教育審議会が設置されたときは「荒れる学校」が問題の渦中にあった。臨教審としてこれを答申に取り上げるかどうかが、最初の議案であったといってよい。
 本質的でない現象を、21世紀の教育の方向づけの答申に盛りこむのは適切でないとする意見もあった。しかしその時点で国民の最大関心事である問題を扱わないのでは、期待に応えられないという主張が通り、第1次答申には「荒れる学校」が登場する。
 それだけではない。個性重視、個の尊重が21世紀の教育目標になったのも、旧教育基本法を踏まえてでもあるが、「荒れる学校」が後押しする形となった。つまり、偏差値教育により画一的な進路しか見えないから、落ちこぼれが荒れる、との解釈から、もっと個性的に生きよとの指針が盛られたのである。
 この個性重視はひとり歩きし、その後20年の教育に大きく影を落とすことになる。
 幸い、今回「いじめ」はそれほど直接に改正教育基本法に影響しなかった。いじめは人間教育のすべてにかかわる問題だからであろう。

 木村氏は、いじめの問題が教育基本法に影響を与えなかった理由が、「いじめは人間教育のすべてにかかわる問題だから」だという。教育基本法の改正は人間教育のすべてに関わる問題ではないのだろうか。改正された教育基本法は、家庭教育へも言及し、学校教育へも言及している。社会教育へも言及している。教育基本法は、人間教育のすべてについて言及しているではないか。どうして無関係と言えようか。
 もし、いじめの問題に関する質疑が教育基本法改正の質疑とは別のものであると言うなら、与党の言う、十分な時間をかけて教育基本法について議論したというのは間違いであるということになる。なぜならその時間の大半がいじめの問題と未履修の問題に費やされたのだから。
 また、木村氏は、

 「教育は不当な支配に服することなく」は、日教組を意識してであろうが、百年の計で考えれば、将来、誤読されかねない文言ではないか。

と述べているが、教育は不当な支配に服することなくという条文は、日教組だけが誤読していたのではない。教育行政の側も都合よく解釈していた。また、先日取りあげたように、文部官僚はさっそく「不当な支配」という言葉を持ち出して、毅然とした態度でなどということを言っている。「不当な支配」という言葉は「不当な支配」の正当化のために既に使われ初めているではないか。
 木村氏は、

 また「政府は教育振興施策を総合的に推進するため基本的な計画を定め」とある。これこそが、もっとも難しい案件となるだろう。
 理想的で基本的な計画が定められたとして、教育現場におろされたとき、対応しうるまともな教育関係者がどのくらいいるだろうか。

と述べ、

 産経新聞が12月16日、トップ記事で改正教基法の成立を報じた同じ紙面に、「教職員処分4000人超」という見出しがあった。平成17年度に懲戒処分や訓告などの処分を受けた教職員がふえ、監督責任を問われた校長や教頭も含めて、処分者は5005人になったと書いてある。事件にまでは至らない、潜在的な不適格者の数はしれない。
 この数字が、社会の他の分野と比率としてどうなのか、想像はつかない。しかし教師への当然の期待を考えれば、実に憂うべき数字ではないか。聖職者であったのが、労働者になったといわれるが、まじめな労働者なら履修科目をごまかすルール違反を生徒にやらせるだろうか。
 私自身がかつて所属していた世界なのでよくわかるのだが、教職に就いていると、閉ざされた環境の中で、まともな人間もだんだんおかしくなってくる。たがいに先生、先生と呼びあって、一国一城の主であり、営業成績を求められることもない。教育の現状を改革するよりは、事無きを選ぶ。偉く立派そうであらねばならぬ宿命に四六時中さらされてもいる。
 この世界に適応できなければ心身を病む。先ほどの記事によれば、病気休職者は7017人で、12年連続で最多記録を更新し、うち6割が精神性疾患を病むという。

とお決まりの展開に持ち込み、持論を正当化しようとしている。これは、芹沢一也氏が「ホラーハウス社会」などで論破した論法と同じで、木村氏の挙げた根拠から直ちに、「理想的で基本的な計画が定められたとして、教育現場におろされたとき、対応しうるまともな教育関係者がどのくらいいるだろうか。」などということはできない。現場のことを考えない基本計画が降りてきても、実行できないというのなら分かるが。

 ある教育集会でいじめについて参加者が意見発表をした。各発言2分という約束があったのに、教育界の長と名のつく人びとが、5分10分と平気で長広舌をふるった。曰く、生徒に規範意識がない、ルールを守らせる力が教師にない、個性尊重で、自分を目立たせ、全体や他を顧みる気持ちが育っていない…。
 これらのことばは、そのまま発言者に返したかった。これが教育界のリーダーかと思うと暗澹(あんたん)たるものがある。

 これは、木村氏も参加したhttp://www.kyoiku-saisei.jp/kyo-ikusaisei/kyo-ikusaisei.htmlでの発言のことを指しているのだろうか。そこで述べられている各氏の意見を読むと暗澹たる思いがこみ上げてくるのだが。
 木村氏は、「私自身がかつて所属していた世界なのでよくわかるのだが」などと述べているが、どれほどの現場を知っているというのだろうか。この寝言のような論からはそういう現場の姿は見えてこないのだが。