教育における中間組織(教育委員会)の改革をめぐって

「教育の最終責任、教委より国」 官房副長官が提言

 下村博文官房副長官は16日、自民党本部で開かれた教育問題のシンポジウムで、教育政策の運営主体について「文部科学省があり、都道府県教委があり、学校の設置主体は市町村で、そして学校現場がある。四重構造であり、これらがもたれ合い、無責任状況になっている」と述べ、教育委員会制度を見直すべきだとの考えを示した。
 下村副長官は「学校現場に任せるところは任せ、途中で口出ししない。しかし、最後は(学校現場が)国が基準に達しているかどうかをチェックすることを含め、法律も変えながら、あらゆる教育制度を一緒に変えていく」と提言した。

 この朝日新聞の記事の見出しの、 教育の最終責任は国が持つというような発言は、至極当然のことではないかと受け止められるかもしれない。しかし、安倍政権の教育政策がイギリスのサッチャー政権の教育政策をモデルとしているということを考えたとき、それは次のような意味合いを持つ。それは、教育委員会を弱体化させることで、権力の多重構造を作り出している中間組織を排除し、権限を学校の持たせ、改革を市場に委ねるというものだ。
 それは、サッチャー政権がLEA(地方教育当局 Local Education Authority)を改革を阻害する要因と捉え、それを弱体化し、学校に権限を移譲し、市場の力によって改革を推進しようとしたことと重なる。下村氏はそれを念頭に置いていると考えられる。
 清田夏代『ISBN:4326250518:title』の中で清田氏は、次のように指摘している。

 保守党政権下の教育制度において、LEAという中間組織を媒介せず個々の学校が国家と直接的に対面し、それぞれが競争的関係におかれることによってそこに生じたのは、まさに弱肉強食の市場的関係であった。

 そして、ウォルフォードがそれを批判したことを指摘し、

 ウォルフォードは保守党による「選択と多様性」の政策の結果生じる社会的不平等の増大などの弊害をよりよく抑制するため、公教育制度が再びLEAの手に戻され、国家と学校の間に介在することによって、自律的学校運営の制度による多様性を維持しつつ学校間の非競争的な調整が測られるという、LEAの機能の可能性を論じていた。

ということを指摘している。そして、それはブレア政権の政策のモチーフとなっているということも指摘している。
 日本では、規制改革・民間開放推進会議教育委員会制度の廃止を提言している。下村氏の発言はその方向性と軌を一にしている。
 本来なら、日本の教育委員会制度が導入された経緯などをここで取りあげなければならないのだが、その余裕もないので省略したい。
 まず、これを紹介したい。

 この法律は、教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきであるという自覚のもとに、公正な民意により、地方の実情に即した教育行政を行うために、教育委員会を設け、教育本来の目的を達成することを目的とする。

これは、昭和31年に廃止された「教育委員会法」の第一条の条文だ。これは、教育基本法第十条の

 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

という条文を敷衍したものだ。
 この条文に現れているように、教育委員会は当初、教育の独立を保つために設置された。しかし、この法律は廃止され、教育委員会は現在のような組織へと変化した。
 教育委員会の廃止を規制改革・民間開放推進会議が提言したとき、文部科学省は「教育の独立」を保つためにも教育委員会は必要であるということを主張した。しかし、内実は違う。文部科学省にとって教育委員会の廃止は自分の権限の縮小に他ならない。そのために反対したというのが真の理由だ。
 規制改革・民間開放推進会議や下村氏などが言う教育委員会制度の見直しは、教育改革を市場の力によって推進するために必要だからだ。しかし、先程の清田氏の指摘により明らかなように、「弱肉強食の市場的関係」を出現させることに他ならない。
 教育委員会の役割は、教育の独立を保つこと。もう一つは、ウォルフォードが言うように国家と学校の間に介在することによって、自律的学校運営の制度による多様性を維持しつつ学校間の非競争的な調整を測るというものだと考えられる。
 中間組織の介在は、時として障害となるが、時として緩衝材の役目も果たす。日本ではイギリスのように中間組織の在り方について十分な議論が行われてきたわけではない。これを機会に議論を深めていくことが必要だ。