大事なのは日常の地道な活動

指導力不足教師]「安倍さんが心配するのもわかる」

社説では、まず

 「制度が定着し、機能し始めた」。文部科学省はそう分析する。
 指導力不足と認定された教師は、研修センターなどで一定期間、研修を受ける。その結果、学校に戻った教師が3分の1、研修中や研修前に依願退職などで教職を辞した人も3分の1いる。残りは、なお研修が続く教師たちだ。
 指導・研修による現場復帰と、改善がみられない場合の現場からの“退場”という二つの狙いを持った認定制度が、全都道府県と政令市に導入されて、実効が上がっている。そう文科省の担当者は言いたいのだ。

と述べ、次に

 「指導力不足教員そのものが減ってきている」。文科省は楽観的だが、そうだろうか。この統計は説得力を欠く。
 認定は、学校長から報告を受けた各教委が、学識経験者らで作る判定委員会にかけて行う。定義も、判定基準も研修期間も教委ごとにバラバラだ。

と指摘している。しかし、文科省の統計が説得力を欠く以前に、指導力不足であると認定された教員の多くが現場復帰に至っていない。それには、当然教員個人の問題も含まれるが、現場復帰のための研修にも問題があることを示している。つまり、何人認定されたかという数字以前にこの制度は機能していないということを意味している。
 また、文科省などは教員免許更新制を導入するとしている。しかし、それ以前に日常において教員が資質を向上させる仕組みを構築することが重要であり、そういう仕組みをこれまで構築してこなかったのが問題だ。また、教員側もそういう仕組みを構築するために積極的に働きかけてきたとは思えない。
 アメリカやイギリスなどでは、教員の資質を向上させるための仕組みがいくつも用意されている。また、その仕組みは行政側だけではなく、教員も積極的に関わって構築されてきた。それは、教員の資質の評価もその後の対応も「教員を管理する」ということが第一の目的となっていないからだ。
 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20060623/1150992750で紹介した佐貫浩氏の指摘をもう一度引用しておく。

 留意すべき点は、マネージメント(学校経営)とガバーンメント(統治)との関連である。イギリスでは今、"イックスセレンシー(学校の優秀性)追求のためのマネージメント"という言葉が大流行している。それは一面で、学校を、ナショナル・カリキュラムの競争的な達成へと追いやっている。しかし、日本の場合、学校管理職によるマネージメントは、ただちに統制(の効率化)と結びつく性格を持っている。日本では「ガバナー」はまさに国家そのものであり、行政である。その性格は、一九六〇年代の学校経営近代化論が、教師への統制論として機能したことにも現れている。このような構造の下では、マネージメント効率、教師の業績競争は、ただちに権力支配への忠誠競争となり、官僚支配の方法となり、学校と教師の自由の剥奪となる。
 しかしイギリスの場合、ガバナーが統治(ガバメント)の主体なのである。まさに教育における統治者である。もちろん教育市場での競争にさらされている点では、ガバナーの関心は、この市場の評価基準に対する効率的な達成におかれる。しかし学校ガバナーは同時に親・地域代表の性格を色濃く持っており、しかも校長採用権をも持って学校のあり方を統治している。教育の地方分権規制緩和は、このガバナーの権限の強化へとつながることによって、地域自治、学校自治へとつながる可能性を持っている。

 日本では、「マネージメント効率、教師の業績競争は、ただちに権力支配への忠誠競争」となるために、「官僚支配の方法となり、学校と教師の自由の剥奪」となり、教員が評価されることを拒否するような事態が生まれる。それを改め、日本においても行政と教員が協力し、資質向上のための仕組みを構築していくべきだ。
 教員免許更新制や教員の資質の向上についてはこれまで何度か書いてきたのでここでは省略するが、何よりも重要なことは日常的に地道に資質向上に取り組む姿勢と、そのための仕組みを作ることだ。数年おきの更新よりもそのほうが着実に効果を上げる。