だからこそ必要なこと

安倍政権でこうなる

 現行の教育基本法制定に関わった田中耕太郎氏は著書の中で次のように述べている。http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20060517/1147792665で引用したのをもう一度引用する。

 わが国における教育は過去において中央と地方の官僚の支配に服し、また政党や地方のボスの勢力に影響されないとはかぎらなかった。第十条第一項前段の趣旨は教育権の独立を宣明するにある。
 ここにいう「教育」には、すべての種類の教育すなわち学校教育、社会教育、家庭教育等をふくむが、しかし、本条の意義は国および地方公共団体が設立するところの学校およびこれと同じく公の性質をもつ家庭教育、私立学校における教育ならびに、国および地方公共団体が奨励する社会教育に関して存する。しかし「教育」には教育自体のみでなく、教育行政も包含するものと見なければならない。教育行政のあり方は教育の内容や方針に影響を及ぼすことが大であり、従って教育行政の独立を保障することは教育自体にとってきわめて重大な意義を有する。例えば教員の地位が官僚や政党人の意向によって左右できるとするならば、良心的な教育を施すことは期待できないのである。本条に「教育行政」という表題がつけられている以上、重点は教育行政におかれているものと見るべきである。

 悪質な印象操作だと言われるのかもしれないが、この産経新聞の記事に書いてあることは、田中氏の言う「教育行政の独立」を蔑ろにし、教育を政治の隷属物にすることに他ならない。
 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20060517/1147795341で引用した田中氏の指摘をもう一度引用しておきたい。

 次に「不当な支配」というのは何を意味するのであろうか。この表題はきわめて漠然としていて、その正確な概念決定は不可能である。一体この規定を守らなければならないのは誰れであるか。この規定に「教育行政」という表題がついている以上は、これは国および地方公共団体という、教育についての公の権力を行使する権限をもっている者が対象になっていることは疑いがない。だからして教育上の権限をもっている者例えば文部省や教育委員会の処置であるからといって、不当な支配にならないとはいえない。国政全般について立法権をもつ国会であっても、教育(教育行政をふくめる)に対する不当な支配をおよぼすような法律を制定する場合があり得ないわけではない。ただ国会をふくめて上述の公の機関の行為に関して、ある者はこれを正当とし、他の者はこれを不当とし、これについて論争がおこり、これを正当とする者は公の機関の行為を無視して行動しかねないのである。従ってかりにある者が不当な支配だと考えても、この場合に順法の精神からして公の行為を尊重して行動しなければならない。不当な支配の禁止は公の機関に対しては立法や行政の規準を示しているにすぎないのであり、政策的、プログラム的以上の意味をもっていない。従ってこれは不完全規定といわなければならない。
 しかし不当の支配を教育におよぼし得る者は必ずしも公の機関ばかりではなく、すべての社会的勢力例えば政党、労働組合、その他の団体や個人にも由来することがあり得る。また、私立学校に関しては、例えば学校法人の理事者のごときものについても同様である。団体についていうならば、それが教育に関する団体でなければ(例えば労働組合のごときもの)本来法的には教育に関する活動をなし得ないわけであるが、わが国においては団体は自己の目的を逸脱して行動している場合がはなはだ多く、かような団体が教育の問題に干渉し、教育に不当な支配をおよぼすことがまれではないのである。かような場合に、不当な支配の内容が他の法令の規定に反する場合は格別として、本条に違反する者はそのことだけで以て特別の責任を負わせられることはない。この点においてもこの条文は不完全規定である。なお公の機関以外の場合に「支配」という用語を用いるのは適当ではないが、この場合には広く解し、影響を及ぼすような行為をもふくむものと見なければならない。
 支配が不当であるかどうかは、教育基本法の精神からして判断すべく、これを一々具体的に説明することができない。例えば人種、信条、性別等によって教育上差別を設けるような教育上または教育行政上の措置を国や地方公共団体が行ったり、私的団体や個人がかような運動をおこしたり、教育者を圧迫したり、ファシズム共産主義のような民主主義に反する思想を学校内で宣伝したり、その他学園を政治的闘争の舞台にしたりすることはこの禁止にふくまれることは明白である。

 現行の教育基本法第十条は日教組の不当な支配の根拠となっている。だから、そういう規定は削除すべきという文部科学省や政治家の「曲解」を信じ込んでいる方がある。しかし、田中氏はこう指摘している。

「不当な支配」というのは何を意味するのであろうか。この表題はきわめて漠然としていて、その正確な概念決定は不可能である。一体この規定を守らなければならないのは誰れであるか。この規定に「教育行政」という表題がついている以上は、これは国および地方公共団体という、教育についての公の権力を行使する権限をもっている者が対象になっていることは疑いがない。だからして教育上の権限をもっている者例えば文部省や教育委員会の処置であるからといって、不当な支配にならないとはいえない。国政全般について立法権をもつ国会であっても、教育(教育行政をふくめる)に対する不当な支配をおよぼすような法律を制定する場合があり得ないわけではない。

また、田中氏は、

ただ国会をふくめて上述の公の機関の行為に関して、ある者はこれを正当とし、他の者はこれを不当とし、これについて論争がおこり、これを正当とする者は公の機関の行為を無視して行動しかねないのである。従ってかりにある者が不当な支配だと考えても、この場合に順法の精神からして公の行為を尊重して行動しなければならない。

不当の支配を教育におよぼし得る者は必ずしも公の機関ばかりではなく、すべての社会的勢力例えば政党、労働組合、その他の団体や個人にも由来することがあり得る。

ということも指摘している。産経新聞に書かれてあることは、単に行き過ぎた発言と解釈すべきだろうか。それとも、不当な支配を行おうとしていると解釈すべきだろうか。私は、不当な支配を行おうとしているのだと解釈している。
 田中氏は、

 教育がその本質上「不当な支配」に服することがあってはならないにしても、このことは教育を全く無統制、自由放任に任すべきものなることを意味しない。教育に関しても国や地方公共団体は広範な範囲において教育に関する任務を負担する。従って国や地方公共団体は教育に関して単に教育に対する妨害の排除ばかりではなく、積極的な役割を演じなければならない。
 そこで教育行政の任務と限界はどこにあるのか。それは教育の本質や教育者の使命を考えて、その自由と自主性を保持し、そのために教育の具体的な活動の内容に立ち入って命令監督することを避けなければならない。つまり教育行政の一つの特色とするところは、一般行政において行われているような官僚的指揮監督の排除でなければならない。(中略)真の教育はのびのびした自由な精神的環境の中において育つ。さような環境は教え子の人格の完成のために絶対に必要である。教師が自由を失い自発性を阻害されるかぎりは、教え子の人格の完成と個性の発展を期待することができないのである。従って教育行政の本旨とするところは、命令、監督ではなく、援助、助言であり、干渉でなく助成である。

 教育行政の任務と限界は、「教育の本質や教育者の使命を考えて、その自由と自主性を保持し、そのために教育の具体的な活動の内容に立ち入って命令監督することを避け」るということであり、「一般行政において行われているような官僚的指揮監督の排除」である。それは、

不当な支配の禁止は公の機関に対しては立法や行政の規準を示しているにすぎないのであり、政策的、プログラム的以上の意味をもっていない。従ってこれは不完全規定といわなければならない。

不当な支配の内容が他の法令の規定に反する場合は格別として、本条に違反する者はそのことだけで以て特別の責任を負わせられることはない。この点においてもこの条文は不完全規定である。

という不完全な物であったとしても、現行の教育基本法第十条の規定がある限り、政治家や官僚の不当な支配を抑制することになる。しかし、政府や民主党の出した教育基本法改正案では、この教育基本法第十条の規定は骨抜きにされたり、削除されたりしている。それは、政治家や官僚の不当な支配を容認することであり、その一方で政治家や官僚以外の不当な支配だけは規制するという「偏向」したものにするということだ。
 長々と書いてきたが、産経新聞の記事を読みながら、現行の教育基本法第十条の規定をさらに強化する必要性今まで以上に強く感じた。不当な支配が行われる可能性が高まっている今こそ、教育基本法第十条は大きな意味をもつ。教育基本法第十条は絶対に削除させたり、骨抜きにしてはいけない。