キョウイクカイカク

 内閣府規制改革・民間開放会議が出した「規制改革・民間開放の推進のための重点検討事項に関する中間答申」の教育分野に関する部分について少しだけ。
 この答申の中で「教育バウチャー」に関して次のような主張をしている。

 現在、教育の公的助成は学級数・教員数を基準とする機関補助となっており、学校で実際に提供されている教育サービスの質及びそれに対する学習者の評価が反映されないため、学校側には改善へのインセンティブが働きにくい。公立学校に関しては、上記(1)の学校選択の普及促進が、このような現状の改善に資すると期待されるが、その選択の結果を予算配分にも反映することによって実質的な予算配分権限を教育の提供側から学習者側に転換することとすれば、学校運営にも緊張感が生まれ、学習者本位の教育の確立にまた一歩近づくことができる。

 彼らはまた、

 児童生徒一人当たりで見た場合、国公立学校に対して私立学校を大きく上回る公的助成が行われている結果、例えば、比較的所得の高い層の児童生徒は私立学校を早い段階から選択し自ら受けたい教育を受ける機会を享受する一方、そのような環境にない児童生徒は自ら通いたいと思う公立学校を選択する機会さえ保障されていないのが現状である。

と主張している。ここで考えなければならないのは、学校選択の結果に応じて予算を配分する場合、どうしても人気のない学校しか選択できない子どもの教育環境はどのようにして保障されるのか。彼らは、そういう子が教育環境の充実した学校へ通うことが可能になるように「教育バウチャー」を活用すべきと主張するだろう。
 だが、そのためにはそういう子どもに傾斜してバウチャーが支給されなければならない。それが果たして受け入れられるだろうか。自分たちは多額の自己負担を強いられているのにという不満が少なからず出てくる。そうした不満に押されて、全ての子どもに同額のバウチャーを支給するということになれば格差は決して解消されない。
 また、彼らは

 例えば、米国においては貧困家庭の児童生徒を対象に導入された教育バウチャー制度が一定の教育効果(成績の向上、保護者の満足度向上等)をもたらしていることは定量的に実証されており、英国においてはサッチャー保守党政権時に学校選択制と児童生徒数による予算配分方式が導入され、その後のブレア労働党政権に引き継がれ制度として定着しているものである。また、オランダでは憲法によって学校設立の自由と学校選択の自由が保障されており、公立・私立を問わず児童生徒数に応じた予算配分方式が完全に定着している。

と主張しているが、wakeiさんが、ブログに書かれていることを読めばよく分かるが、アメリカやイギリスの学校選択とオランダにおける学校選択では違いがあるし、規制改革・民間開放会議が主張する学校選択とも異なるし、日本で一般的に取り入れられている学校選択もそれらとは異なっている。
 その違いは単に制度上の違いではなく、教育に対する考え方の違いでもある。学校選択の基盤であり、前提である「教育の自由」という考え方一つをとってみても大きく異なっている。
 しかし、彼らは教育バウチャーの必要性は主張したとしても具体的にどのような取り組みが必要か、それが導入されればどうなるか、この答申では示していない。彼らの主張はやはり、「提唱者が夢みた文脈」でしかない。また、彼らは教育バウチャーの導入による悪影響を過小評価しているように見える。
 「教育委員会制度」について彼らは、

 現在の教育行政組織は、教育を受ける立場の学習者の期待や意見に対して明確な権限と責任に基づいて即応できる体制にない。すなわち、学校長、市町村の首長及び教育委員会並びに都道府県の首長及び教育委員会が並列的あるいは重畳的に存在し、学習者から見て権限と責任の所在が曖昧になっている。また、教育現場における重要事項や基本方針を決定し執行すべき教育委員会は、必ずしも学習者の利益を代弁しておらず、むしろ各地方公共団体に画一的に設置されているため国の指導助言等に基づく上意下達のシステムとして機能しがちである。その結果、教育現場における創意工夫の発揮が妨げられ、供給者側の視点に立った画一的な学校運営を助長し、能力や適性に応じたきめ細かい教育が必要とされる学習者が置き去りにされるという状況すら生み出している。さらに、公立学校の設置者であり、かつ本来地方行政について住民に責任を負うべき首長には教育行政の執行権限がなく、より良い教育を地域住民に提供していく責任を全うできない状況にある。

とごもっともな主張をしている。しかし、そういう彼らが、東京都の教育委員会などが導入しようとしている「上意下達のシステム」について批判したことはない。
 また、彼らの主張する問題を解決しようと考えるならば、教育委員会を廃止するのではなく、教育委員会が首長や政治の影響を大きく受けるような現行システムを見直し、「教育の独立性」を強化すべきではないか。
 彼らは、

 教育委員会という組織を設置したからといって、それらが完全に保障される訳ではない。教育委員会を置かない選択を認めたとしても、予算の承認等を通じた議会によるチェック、選挙による住民の評価を受けることには変わりなく、むしろ責任と権限の所在が明確になるなどの効果が期待できる。

と主張するが、滋賀県の例を挙げるまでもなく、議会が住民や「学習者の利益を代弁」するとは限らない。彼らの主張することを本当に実現しようとするならば、政治が教育をみだりに利用することを制限する必要がある。オール与党化し行政に対するチェック機能さえ正常に働かないような議会にそれ程期待できるのだろうか。
 ここで取り上げたこと以外にも答申ではいくつか取りあげられているが、彼らの主張は、そのまま鵜呑みにできるものではない。なぜならば、この答申は自分たちが正しいことを主張するためにあるとしても、規制緩和による悪影響についてほとんど触れていないからだ。繰り返しになるが、悪影響について過小評価しているのではないかと思う。