愛国心の議論について

 2006年6月1日、衆議院教育基本法に関する特別委員会の会議録から小渕優子議員の質疑の一部を引用したい。

○小渕委員 
(前略)
 教育基本法改正において、教育の目的、理念として、「我が国と郷土を愛する」と記されています。国と郷土を愛するということを規律化し、評価する方向に向かうとの懸念が示される向きもありますけれども、先般、大臣も御答弁されましたが、これは客観的に評価されるものではなく、心の内側から沸き上がる心情を養うものである、私もそのように考えています。
 近く、ワールドカップがドイツで開催されます。きのうも朝早くからごらんになった方も多いのではないかと思います。あのワールドカップを見ていますと、世界の多くの国々の人たちが、それぞれの国旗を持ってチームの勝敗に一喜一憂し、国旗を振り、国歌を歌うというのは、まさに、これはだれから強制されるということでもなく、自然に沸き上がってくる感情であると思います。
 サッカーの応援の際は、日本においても、だれに言われるまでもなく、当然のように誇らしく国旗を振り、また国歌を歌います。そうした沸き上がってくるという感情が何よりも大切かと思いますけれども、総理の描かれる国旗・国歌に対する思い、また、いろいろと懸念されるわけでもありますけれども、国と郷土を愛するというのはいかなるものでしょうか、御所見をお伺いしたいと思います。


小泉内閣総理大臣 国に愛着を感ずる、郷土を愛する。国を愛するというのは、人間が成長していくにつれて自然に身についていく感情だと私は思っております。
 その根底には、国に住む自分の親、兄弟、家族がいる、その生まれ育った環境を通じて、人を大切にする、ひいては郷土、地域を愛する、そして、同じ地域、国に住む人が活躍するのを見れば喜ぶ。同時に、各国それぞれそのような愛国心というのを持っているからこそ、これから始まるサッカーのワールドカップ競技におきましても、それぞれが自国の選手を応援し、国旗を振り、国歌を歌う。まさにこれは、多くの人々が、みずからの国を誇りに思い、みずから、出ている選手を激励しよう、応援しよう、そしてそれを自分の喜びとする。自然に身につけた一つの愛国心の発露だと思います。
 こういう点につきまして、自分を愛する、自分の国を愛する、同時にこれは、他人を愛する、他国を尊重する、今まで自分が生まれ育ってきた歴史、伝統を大切にするということを、日ごろからの行動において、あるいは教育において身につけられるような人間を育てていこう、あるいは、そういう面において情操豊かな人間を育てよう、そういう気持ちを持って、教師が子供に、また親が子供に接し、教育活動をするということは、私は、自然な、また大事なことだと思っております。

 「愛国心」の議論では、よくこのようなことが言われる。サッカーを観戦している最中に自然に沸き上がってくる感情を「愛国心」だとするなら、本来法律で規定できるものではないし、規定する必要はない。また、そういう「愛国心」を法律で規定しても政治にとって何の利益もない。しかし、「愛国心」を法律に盛り込もうとする。それは、政治に大きな利益をもたらすことになるからだ。ここで考えなければいけないのは、政治にとって利益をもたらす「愛国心」と、サッカーを観戦している最中に自然に沸き上がってくる感情としての「愛国心」が同じものか、それとも異なるものかということ。
 政治に利益をもたらす「愛国心」は、政治の大義名分としての「愛国心」、政治を正当化する「愛国心」、国民の同質化するための「愛国心」、主義・主張の合わない人たちを排除するための「愛国心」などがある。過去を見ると、これらは国民に幸せをもたらすよりも国民を不幸にしてきたものばかりだ。
 「愛国心」を法律に盛り込もうとする方々の目的は、政治に利益をもたらすこういう「愛国心」を手にすることだ。それも、政治にとって非常に使いやすい形で。
 サッカーを観戦している最中に自然に沸き上がってくる感情を「愛国心」だと主張することで、彼らは「愛国心」を法律に盛り込むことに反対する人たちを非常識で当たり前のことさえもできない人たちと非難し、その主張を退け、本来の目的は覆い隠している。
 その「愛国心」は誰に利益をもたらすのか。「愛国心」をつかって利益を得ようとしているのは誰か。