育つということ。それを忘れないで。

 『教育』4月号 国土社 の「扉のことば」からの引用。

 私たちは、教師が育つ場所の一つは教室と学校である、と思っている。学校の外にある研修機関や自主的な学びの場はもちろん大切な成長の機会である。しかし、実践的問題が不断に生起する教室と学校でこそ成長したい、という教師の思いは強いのではないだろうか。
 これまで、教師の多くは、この教室と学校で自らの教師としての成長を実感することができた。教師の成長は、実践者相互の意見と悩みの交流(同僚性)、それと援助的な指導を頼りにできた先輩教師と管理職の存在(見守り)、によって可能であった。
 しかし、今日、学校は教師を育てる場所とは言いにくい存在になってきている。学校は権威主義(管理)と形式主義(数値目標)よって運営され、教師をバラバラで孤独な存在へと押しやっている。同僚性の喪失は、管理への従属と一時しのぎで単純な技術的解決へと走らせてしまう。

 教室や学校が自分を活かせる、挑戦できる場所になっているだろうか。教室や学校は失敗や批判を恐れ、無難にやり過ごす、決まったことをこなす場所になっていないだろうか。失敗してもそれを取り戻せる機会がどれだけ与えられているだろうか。学校や教室は生き甲斐を感じる場所ではなく、ただ徒労感や無力感を感じる場所になっていないだろうか。「教員が育つ」それを忘れ、インスタントの金太郎アメのような教員を大量生産しようとしていないだろうか。